MSWのこぼれ話

不定期に更新します

生活保護を受けること

MSWの仕事をしていて、幾度となく生活保護受給のお手伝いをしたり、生活保護受給者の対応をしてきている。

Twitterで時々、心無い言葉を見かけることもあるけど、そんなの全部無視。受給している人たちがどんな経緯で受給したかなんて知りもしないくせに、無責任なことばかり言う人に腹の立つこともある。病院の先生にも時々。

 

名前も住所も生年月日もうまく言えない人の生活保護受給のお手伝いをした。入院当日、すぐに会いに行って、本人が言える限りの話を伺い、ようやく名前が朧げながらにわかり、生年月日はわからず。

家はなくて、道端で寝ていた。

 

ようやく、福祉事務所の面談があって同席したのだけど、生保ワーカーさんから本人に生活保護受給の意思確認があり、「うん」と大きく頷いてくださった。

 

面談が終わって、車椅子を押しながら病室に戻るときに「お金の心配も、ご飯の心配もしないで、まずは体のことを第一に考えましょうね。生活保護も受けられそうだから、安心してくださいね」と声をかけたら、泣き出してしまった。

お辛かったかな、生活保護は受けたくなかったかなと思ったけど、そうではないらしい。

 

とある患者さんは「生活保護を受けてまで入院するなんて恥ずかしい」と心無い言葉をかけられ、入院中断することになってしまった。

本当に嫌な気持ちになる。

この国で、生活保護を受けることをどれだけ蔑めば気が済むのだろうか。

こうした制度は近代国家の英知じゃないのか。

法律は何のために、どういう経緯で作られたと思っているのか。

と、生活保護受給者に冷たい視線を送る赤の他人にほとほと嫌気が差すし、怒りが湧く。マジでお前こそ道路歩くなよって。

 

税金で暮らしているのはみんなお互い様。

「たまたま」元気でいっぱい働ける人が、税金を納めているし、「たまたま」病気や怪我をして、生まれつき弱くて働けない人が生活保護を受けていて、その何が悪いんだろう。

 

限界まで頑張ってる人たちもたくさんいて、そういう人が追い詰められてしまう世の中って絶対におかしいし、人は人の優しさとか愛情とか、そういうものを受け取りながら、自分もまた人に優しくしたり、誰かを大事に思ったりして生きていく生き物なはずなのに。

 

理想主義と思われるのかもしれないけど、患者さん一人一人の生活や人生を大事に思って、丁寧にその営みを労って尊重していく心は自分の仕事のスタンスの最初に置いておきたいと思う。

 

「クライエントは誰か」

MSWになって2年目。

この年は私の人生を大きく変える目眩(めくるめ)く出会いがあった。まず、この道40年弱の大ベテランMSWとの出会い。

今も真剣に、勝手に恩師と仰いでいる。

私はその頃、まだよくわかってないことの中で必死に仕事をしていた。なんとか形にしようともがいていた。

骨折した患者さんの担当をしていて自宅で生活していた人だった。

骨折を機に患者さん家族は施設に預けたいと考えている、と思いを吐露してくれた。

患者さん自身は「家に帰ります」の一択。

 

今思えばあるあるの話なのだけど、私は「クライエントって誰なんだろう」「相反する二つの意見の中で私はどう振る舞えば良いの?」と変な窪に落ち込んでしまった。

 

恩師に「私は一体どっちの話を聞けばいいのでしょうか。患者さんが私のクライエントなんだと思うんですけど。でも娘さんの意見も聞けば聞くほど納得できるし」と話したところ、答えは単純明快だった。

「私はあんまりそこ、考えないな。自分に思いを話してくれた人があなたのクライエントよ」。

 

結局恩師はそれ以上の話はしなかったけど、私にはそれで十分だった。

 

一人の患者さんに対して、相矛盾する二つ(時には三つとか)意見が出ることはある。その中で、私は私が向き合っている人の意見をきちんと聴く。

よく聴く。

その上でこちらが伝えられることは事実や社会制度など。

特に「家に帰ったらいい」「施設に入ったらいい」なんていうバイアスは医療者の偏見でしかないと思っているから、「家に帰った場合は」「施設に入った場合は」という仮定の話の中でより患者さんや家族がこうしたいと思うものを考えていただければと思うし、方向性の話は家族と患者さんの間でしっかり話してもらいたいと思っている。

 

時々「病院側から施設に行くように言ってください」などと言われるけど、そういう機能は私にはない。

それを決めるのは私ではないから。

コロナさえなければ、この夏会いたかった人ナンバーワンの恩師。今も定年後にゆるりと働いているときくし。そろそろ会いたいのだけどなぁ。

根拠のある情報提供を。

先日、職場の大先輩、と言っても他職種(リハビリ)の方を交えて患者さんの支援プランを一緒に考える機会があった。

患者さんの担当は私を含めて経験年数の浅め(と言っても5年以上くらい)の何名か。

なんだかずっとフワッとしていて、「かもしれない」ということが多くて、根拠を持って先生たちに言えないことが我々の悩みだった。

まずは今、何を課題に感じているか、どう考えているかなどをみんなで話していたのだけど、やっぱりそれは「そんな感じ」というものだった。もちろん、リハビリの方では検査などもとっていて評価しているのだけど、検査結果と実場面と、「でもうまくできそう」「やっていけそう」というものもないまぜで「こういう結果をもとにこうしたい」がぼやけていた。

 

それを静かに聞いていた大先輩が「あのさ、画像はどうかな。脳のスペクトラル画像でどれくらい血流悪いかとか見てみた?」と聞かれ(私には聞かれてないが)、しばし見方や見るときのポイントをお勉強。

 

ふむふむ。

CTやMRIで見ている損傷部位と実際の虚血範囲って意外にも一致しないのね。言われてみればそうか、みたいな気付きと学びの連続だった。

社会制度や社会資源については把握していたけど、相談する際にはこうした根拠で語れるかどうかってとても大きいし、こうやって患者さんの病変と臨床を見られるとよりふんわりせずに考えられるなぁなんて思った。

 

私たちが(MSWが)介護保険の案内や障害者手帳の案内などをするときですらも「根拠」に基づいて行っている。

1年目の最後に出会った先輩が教えてくれたことは「法的根拠を持ってあなたは制度の案内や社会資源の提案をしていますか」ということだった。

MSWとして、誰かに何かを語る以上、根拠があってこその連携であり提案であるのだとその時に思い至った。

その後も制度の解釈や法解釈の中で、悩むことや「これでいいのか」と思うこともあるし、根拠があれば何でもかんでもやればいいってもんでも当然ないんだけど、私の中では理論的に積み重ねていくことを大事にして来たつもりだった。

 

でもそれは、何もMSWに限ったことではなくてリハビリも看護師さんもきっと同じ。

術後○日目の患者さんの反応、痛み、検査結果に基づく対応やプログラムがある。

一般的なものを把握しつつ個別性も見ていく。

そういう繰り返しなんだなってことを話し合いを通じてどんと学ぶことができた。

 

普段、ケースの対応に追われてしまう。その中でぼんやりと過ぎていくものもあって「これでよかったかな」なんて思うものも多い。特に、ずっと回復期にいたゆえに脳外科患者さんの支援をすることが多かったからパターンはわかっているゆえに「リハがそういうのならこうかな〜」なんて「なんとなく」のあたりをつけていることが多かったと反省。

当然、専門が違うから私は入れない範疇でもあるのだけど、お互いに科学的根拠や法的根拠を持ってプロとして患者さんの支援をしていくって当たり前に大事。

 

そんなことに気付かされた。

どこかの講座に参加したわけでもなく、こうして職場で学びの場があってありがたいなと思った夜だった。

人生の最後に残るもの

かつて勤務していた病院の看護師さんは、その昔姉と同じ大学病院で勤務していたという。

その後、子どもの出産、子育ての中クリニック勤務をしたり、病院の外来勤務をしたり。そして今の仕事に落ち着いたという。

「退院支援看護師」という肩書きだったけど、実際は連携室の入院相談業務でまだ病院のことをよくわかってない私は、彼女の持つ技術と与えられた役割のミスマッチがいまいち理解できなかった。

 

今も、「入院相談を看護師が受ける意味はわかるけど、退院支援看護師なのか?うちの病院とは全然違うよなぁやっぱり」なんて思う。

その看護師さんと帰りが一緒になった時のある日。

まだ仕事を始めて2ヶ月目とかそれくらいの頃だったと思う。

看護師さんが「亡くなるその時まで残るのは介護と看護なのよ」とおっしゃっていた。

なんて大事な仕事なんだろう。

病院で働き始めたばかりで漠然と「医師が最高権力者」と思っていたし「最後まで医師が患者さんの人生を左右する」くらいにまで思っていた。

だけど、残された時間をどう過ごすかというものを支えるのは実は医師ではなくて看護師さんだったり介護士さんだったりする。そういうことなんだと理解できた。

もちろん、医師は処方もするし診断もする。だけど、その処方と診断を経て手を動かし汗を流してケアにあたるのは看護師さんや介護士さん。

そして家族。

 

急性期の病院で働いていると劇的に良くなって帰る人もいれば劇的に悪くなって療養病院を選択せざるを得ない人がいる。

どんな場所でどんなケアを受けて最後の時間を過ごしたいか。

とても難しいけど大事な問いだなと思う。きっと、若いとか年老いているとか関係なく考えなくちゃいけないこと。

 

ベテランの看護師さんから聞いたその話はもう何年も前の話だけど、今もずっと心に残っているし、それを聞いて以来看護師さんの役割とか仕事とは?ということに考えが至るようになった。

仲良しの看護師さんがまさにそんな視点で看護をしていてとても尊敬する。

姉もきっと、心の中にはそういうプロ根性を育てているのだろうな。

退院支援とは。

すごく久しぶりの記事になる。

今日は非常に義憤に駆られたことがあり、記録にも記憶にも留めておきたい。

ことの発端は、病棟からの一本の電話だった。

「この人、転帰先がいまいちわからなくて。ワーカー介入してもらえますか?」と言う電話だった。そう言うのはよくあること。

でもよくよく聞いて、カルテを見たら他院からの紹介だった。

ん?じゃあ普通に考えて治療終えたらその病院に戻るでOKじゃない?

と思ったらそんな単純でもなく、「在宅の訪問診療は●●です」とか、「今後は在宅の予定です」とかある。

在宅予定だけど、一旦そっちで受けてからの在宅調整よね、Alright?」なんて思ったら全然Alrightじゃなかった。

ちんぷんかんぷんである。

 

うちから、在宅、設定??本気??

治療後に加わる医療行為の家族指導は?やってくれも何も書いてない。そもそも急性期の病院に一泊二日程度の治療依頼をして、「後は在宅でよろ」って言うなら、MSWサマリーくらい送れよ。

と、思った。

なんで私がこんなに怒り心頭だったかというと、どうも聞けば聞くほど驚くことにリハ病院に半年も入院していながら、全く家族が在宅の指導を受けていなかったから。

そして悪意たっぷりの看護サマリーがペロンと送られてきたから。

MSWなんて影も形もない。

担当はいたらしいが、「施設に行った方がいい」の一点張りだったという。

在宅が可能かどうかのアセスメントとしても家族指導は大事なことだし、一般的感覚で言えば、施設の方が安全牌と思うケースで家族が在宅を選ぶ場合、家族の介護力をアセスメントする。

どうするかというと家族指導で家族に手を動かして体を動かして介護体験をしていただく。

コロナでうんちゃらなんて言い訳はしない。リハ病院の看板降ろせって話になる。

 

そもそもきっと家屋評価なんてしてないんだろうな。

そんな質悪のリハ病院があるんだ。私の古巣よりヤバい。

 

家族が私と電話で話していて「泣くほど嬉しい」って言ってくれたけど、いやいやこれが普通だから。特別なこと一つもしてないから。こういう標準装備を持たない病院の方がおかしいから、と心底思った。言えなかったけど。

 

結局、うちの病院で最大限できる限りの家族指導をして帰ることになったけど開いた口が塞がらないし、リハビリ病院の矜持なんてないんだろうな。

そもそも、家族指導云々の以前に患者家族が希望することに沿ってできる限り支えていくのがMSWの役割であって自分の価値観(施設へ在宅へ)を押し付けるのは役割じゃないし、それでも家族の意向にクエスチョンがある時は膝突き詰めて話すのが我々の職業だと思うんだけど。

 

最終的に「今の病院で働いててよかったわ。あそこの病院で働いても全く質良い支援なんてできないわ」と言うことで心を落ち着けた。

あと、在宅に戻るにあたってたまたまうちで治療受けることになって、こう言う悲しいケースをキャッチできたのはよかったとしよう、と。

 

家族からの相談

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私のいる病院はソーシャルワーカーが連携部門も兼ねている。

だから、転院相談も承る。

最近は、家族からの相談も多い。「もうすぐ退院て言われてるんですけど、リハビリさせたくて」など。

今、どんな病気で入院しているのか、本人と会っているか(最近はコロナのせいでほぼ面会もできていない)、医師にはどういう身体状況と聞いているかなど、伺いながら家族の思いも聴く。

 

各家庭、各人で相談内容は様々。家に帰ることへの不安というシンプルなものであれば、うちの病院の種別の特殊性も伝えつつ、こういうところに相談してみては?ということもあるし、うちの病院のワーカーからこう言われたよって入院先のMSWに言ってねと伝えることもある。

 

この間相談を聴いていたら、どうも入院先の病院のスタッフとはうまく折り合いがついていない様子で「暗に迷惑って感じで言われていて」と言っていた。

そう思わせるスタッフってどうなの?と思うけど、うちの病院とて患者家族にそう思わせてしまう振る舞いをすることもあるだろうし、他院のことを言えた口ではない。

ただ、家族の不安を色々聴いていると、つい世話好きな性格のせいか、「退院したあとのこと考えると、手帳の取得とか社会資源の情報を得たり、どういう状況で退院時期を迎えるとか知っておきたいですよね」などなど共感しながら話をしてしまう。

 

電話で話したご家族の方々が「お話聴けてよかった」「聴いてもらってよかった」と言ってくださるから、私も少しは役に立てたかなと思ったり。

 

面談で話すことも好きだけど、電話で見ず知らずの人が切羽詰まって相談してくれて、電話の後には「こうしたらいいのか」と思考の整理ができたり次の行動が具体的に見えたりすると、よかったなと思う。

 

 

「回収ボックス」

今、うちの病院に来ている(仕事で)若手医師とはとことん、相性が悪い。

波風はあまり立てたくないし、比較的穏便に事を進めたく、小言は言わないようにきをつけているけど、きっと言葉にせずに顔中で「それ違うから!!!」と突っ込んでいるだろう私がいる。

思い切り首を振ったりかしげたり。

なので、違う意味でICには絶対に同席したいと思っている。どんな失言をして患者さん家族を悩ますかわからないから。

前にいたベテランの脳外科医は「先生のICに出ると疾患の勉強になるわ〜、声も素敵だわ」とこれまた違う意味で同席希望♡だったけど、今の若手医師はそんな甘くない。

 

今日もわけのわからない説明を患者さん家族にしていた。特養では拘束のたぐいもできますね、などのたまっていた。どこの特養の話だろうか。

今どき、拘束バリバリでOKOK!なんていう施設にこちらも大事な患者さんをお願いしたくない。

少なくとも外れない理由、外せそうな評価を科学的に客観的にすべき。

 

すべてを一つでは語れないけれど、そういうことを放棄してしまう医療従事者はニセモノだなと思う。医療従事者の看板でご飯を食べているのなら、抑制、拘束のたぐいを外せるのかどうか、根拠を持って期間を設けてきちんと評価すべき話で。

 

それを医師自ら「もう無理だと思います!」(以上)。

みたいなICをなさるので、IC後に話を引き取らせていただいて「先生の話していたことはこういうことで、こちらとしてはこういうことを取り組んでいきます」という行間にも書かれていないことをまあるく伝えて先生の発言を回収している。

 

他の先生の話は大抵は回収せずに先生の見立てや見解を軸に話すことも多いのだけどどうしてもこの若手医師だけはだめだ。

 

向精神薬のものすごく強い薬をもりもりにして患者をドロドロにしてとうとう具合悪くしてしまったり(担当ではないので強く言えないけど相当に怒って院長にも抗議してしまった)、拘束のたぐいをはずすために胃瘻を作っちゃえと勝手にスケジューリングしたり。私の中では「ないない」と思うことが多く起きている。

なので、なんとなく「回収ボックスだな」と思って働いている。