【雑記】児童虐待事件が起きるたびに思うこと

昨年の3月、目黒区で女児が親に殺された事件があり、児童虐待の悲惨な事件として報道されていた。事件の後に世論も随分と活発になって各自治体で取り組みなども公表されたと記憶している。

 

それから1年。この冬も野田市の女児が両親に虐待されて殺されてしまった。

本当にどうして子どもの、人の命がこんなにも軽々しく扱われているのだろうと思うと胸が苦しく吐き気がする。

3日も立たせるなんて狂ってる。3時間だって異常だと思うのに。

おまけに食事も与えず死に至らしめている。

夫婦間のDV(言葉も行動も含め)も大問題だが、今回は児童福祉、児童について考えたい。

前提にすべきこと

  1.  親は間違えるもの
  2. 子どもは親の所有物じゃない
  3. 家庭内における暴言も暴力もいじめ同様、犯罪であること
  4. 子どもの生存権は親権よりも尊い
  5. 厳罰化だけでは解決しないこと

やってみたらどうかと思うこと(案)

  • 妊産婦〜出産後1年程度、母親に地区担当の保健師(もしくは病院の助産師か保健師さん)が定期的に面談を行う。
  • 保育園、幼稚園、学校機関、児童センター(子ども家庭支援センター)、保健センター など全ての機関にソーシャルワーカーを配置する。
  • 各機関は月2回以上、情報共有と連携の機会をもつ。
  • 各機関の情報は(できればクラウド上で)一元管理。大手IT企業のもつレベル以上の情報セキュリティーで。

前提についての理由

親が間違うことについて

子どもを育てる親も人で、神様ではないので子どもに対して雷を落とすこともあれば「理不尽だろう」ということで目くじらを立ててしまうこともある。感情のコントロールは大人でも難しい。1歳児を相手に怒りが収まらない日もある。

でもそれは「そういう日もある」ことであって「そういう毎日」であることは子どもに健全とは言えない。

情緒が安定していればバランスをそこそこ取りながら、やりくりしていけるけど人間全てがそういうわけでもない。安定していた人がストレスをきっかけに不安定になることもままある。

親が正しいなんてことは言い切れないし、親が間違ってるかもしれないという前提に立ってみていくと、今まで問題とは思わなかったことも気になってくることがある。

子どもは親の所有物じゃない

だから、親だけが子どもを育てるのではなくて、社会全体(地域全体)で子どもを育てていくような仕組みや制度ができないものか、と思う。

子どもだけでなく、高齢者もそうだけど。

核家族の多い社会の中で、子どもを夫婦だけで育てていくなんて至難の業。親もまた過剰に責任を負うのではなくて日々、些細なことでSOSが出せる仕組みが地域にあれば子育てが変わってくるのではないかと思う。

今回の野田市の事件の真相はまだわからないけど恐ろしいまでの支配欲と怒りが父親の行動から伝わる。子どもを支配することは間違っている、価値観では収まらないダメなこと、という前提ができれば、この支配に依存していた父親の異常性ももう少し早く気づけていたのではないかと思う。

家庭内における暴言・暴力は犯罪です

子どもに向かってつい声をあらげることもあるし、手が出てしまうこともあるかもしれない。でもその度に目に見えない傷や屈曲を子どもに与えているのではないか。

特に「死ね」だの「産まなきゃよかった」だの「こんな子はいらない」だのは一発アウトだと個人的に思う。

親にそう言われてなんともないって子どもは誰もいない。そういう暴言は人や物を破壊する暴力にも繋がっているし、そういう暴力は犯罪と認識した方が良いと思う。

生存権は親権よりも重い

親権は身上監護と財産管理の権利で、そもそも子どもの命を脅かして暴力を振るうような、精神的破壊に至る暴言を吐くような親は、親権を行使していないことになる。いうまでもなく、子どもは親から離れた一存在で親が正しく監護していないのであれば、親権をいくら訴えたところで「何言ってんの?」て話になる。

子どもの命を守る。これが児童福祉のまず大前提でないと、何も前に進まない。

厳罰化では解決しない

だから、虐待する親を片っ端から逮捕して起訴して裁判にかけて懲役刑にすれば虐待は減るよね、ってことはないだろうと思う。その親が子どもを虐待するに至った経緯やどこに支援の手があればよかったか、伴走者がいれば変わったのかを丹念に分析していくようなアフターフォローの専門家が必要ではないかと思う。

ペアレンティングを学べないのもこの国の不幸だと思うけど、間違ったことをして失敗にしちゃった人だとしても、家族再統合に向けた家庭復帰・社会復帰のプログラムにより重きを置いていかなければ解決にはならないのではないか。

やってみたら変わるのではないかと思うアイデア(案)

妊産婦、母親への面談

特に初産だとあれこれと心配なことが多い妊婦さん。仕事とのバランス、夫との関係、自分の精神バランスの変化…。だけども相談先もなく、妊婦健診のたびに違う助産師さんがいて誰に相談したら良いのか…。ということがある。病院の助産師さんが2ヶ月に1度程度、面談して出産後はそれを引き継いで地区担当の保健師さんが月に1度、家庭訪問で面談して母親やその過程の状況を全戸把握する。

ただ、これには大きな問題があって地域の保健師さんの数が足り図、質にばらつきがあること。保健師さんの価値観を押し付けたり親の話を聞かない面談じゃなくて、面談は相手が話すための時間であることを研修や実地で訓練しないと難しいなと思う。

各機関にソーシャルワーカーの配置を

これも保健師さん同様だけど、ポンコツSWじゃ意味がない。100人規模に1−2名程度配置(常勤、少なくとも開いてる日は在籍)して基本的に年に1度は親、子(別で)と面談する。入園時、入学時は入ってから2ヶ月以内とかでね。転校も含め。

そこで色々課題があったり、課題だったことが解決されていたりという進捗はあるはず。

情報共有、目的を持った会議を行う

なので、定期的に会議を行ってそこで細かく情報共有と連携を図っていく。※子どもの抱えている問題は何によって解決できそうかをアセスメントしていくのがSWの役割と考え、ここでいう連携とは「誰が」「いつ」「どこで」「なんのために」「何をする」を確認すること。

情報はクラウド管理したい!

以前、IT企業にいたこともあってIT企業のセキュリティレベルって相当高いと思っている。個人情報(顧客の氏名など)の入ったメールなんか絶対送っちゃいけないし、クラウド内でもアクセス範囲が限られている。

引越しのたびに児相の引き継ぎができてないとか、会議の書類がないとか言語道断だと思うことがあるのもいまだに紙文化のせいではないかと思う。

紙が悪いとは言わないけど、その場で記録をまとめる係がいてすぐにアップして誰でも(ってもちろん権限のある人)が閲覧できれば、間違っていたり書かれていないなんてミスも防げるのではないかと思う。

 

単なるアイデアなので懸念事項もたくさん湧くけど、子どもの命が一番大事、その子どもを把握できるのは児相じゃなくて地域でしょ、と思うので地域の専門家がもっと嗅覚を養ってしなやかに動くスキルを身につけて働いていれば、虐待死するもっともっと手前で防げるのではないかと強く思う。

 

 

【雑記】尊厳死、安楽死、さまざまな死についての選択

一番最初に尊厳死安楽死を知ったのは高校の授業だった。キリスト教主義の学校だったので、死に至る人の心理のステップ(拒絶から需要に至るまでの葛藤など)やこうした死における人の尊厳ということについて特に欧米で、宗教的文脈を含めて議論されたり制度が施行されていて、とても興味深いと思った。

それから20年以上がたち、最近もTwitterやテレビなどで時々尊厳死についての話題を見ることがある。

ソーシャルワーカーとしてこの問題にまだきちんと向き合えきれていないので雑記としたいが、医療倫理の文脈やDNARとDNRの違いなどにおいても死をどう捉えるか、「誰が・いつ・何を・どのように」決めるかということを度々考えさせられている。

 

bunshun.jpこの記事で古市氏が語ることが普遍的なことなのか、私には判別しがたいが、これまでたくさんの患者さんとそのご家族と会って、話し合いを重ねていて、「延命治療セッ巨曲的にしてください」という方には出会ったことがない。出会ってないのも極端な気がするのだけど、毎日何万円ものベッド代を払う方から生活保護の受給者までおしなべて「延命治療は望まないし、心肺蘇生もして欲しくない」とおっしゃることに驚いた。

 

少なくとも、ここで古市氏が言ってるような現状をひしひしとは感じないのはまだ私の経験が足りないからなのだろうけど、高齢者が皆、延命を望んでそのせいで医療費がかさみまくっているというのも本当かな???と思ってしまう。

むしろ、他の方もどこかで指摘していたけれど、どこが「最期の1ヶ月か」がわからず、目の前の人の救命のために様々な治療を施し、だけども助けられずに亡くなってしまったケースも多いはず。

 

ちょっと話が遠くなってしまったが、尊厳死についてすごく難しいと思うのは、「もうすぐ死ぬ」という予測ができる疾患もあるかもしれないけれど、それが難しいケースもあると思ってしまうから。

時々、がん患者さんでステージ4「余命3ヶ月です」と言われながら回復期リハに転院してくる方がいて、がん治療すればもう少し長生きできるかもと言われているけど、そこも拒否して回復期という選択をして、結局、意識混濁でリハもできずに亡くなる方がいる。

これも尊厳死に含まれるのか、どうなのだろうかと考えさせられる。

 

胃ろうについても同様で、「胃ろうは絶対に嫌だ」という人は多くて、私の両親もご他聞にもれず、だけども胃ろう=悪いもの、延命処置と思っている節があるようで、それもどうなのかなぁと思ってしまう。

例えば脳血管疾患で嚥下障害が起きて、他はすごく元気なのに食事はとれないとか、食道がんで口から食べられないから胃ろうで、という人がいる。こうした場合、胃ろうを作らなければ点滴ないし経鼻経管などで対応するしかないけれども、QOLを考えた時に、胃ろうの方が良いかもねと思われることがよくある。

確かに、いつかは命が終わるから胃ろうの「やめ時」ということも考えなくてはならないけども。

ある患者さんが経鼻経管栄養で回復期リハビリ病棟に来て、車椅子の乗車も1時間程度だったのに、胃ろうにしてから歩行は進むし意識ははっきりしてMMSEが10点台から26点になって支えがあれば数段の階段も登れるようになって。食事も1日の半分は口から食べられるようになって…。

 

こういう方を見ていると、胃ろう=延命、悪、といった考えが極端に思える。

 

ある人にとっては延命になる治療・医療行為が、ある人にとっては救命になる。

だから、尊厳死安楽死など自分の死について考え、選択できること、することはすごく大事だと思うけど、自分にとって今それが何に当たるか、きちんとインフォームドコンセントを受けておく必要がある。

一般論だけ見て「胃ろうはいい」「胃ろうはやだ」と考えると、いろんなケースに対応できないと思う。

その意味でも、医師のICを受けることをいつも患者さんやご家族には強く勧めている。

より正しい判断、自分の気持ちや価値観に沿った選択をするためにも、医学的知識や治療内容、計画を知っておくことが欠かせない。

 

そ子を抜きにして「やだ」「良い」だとすごく心配になってしまう。しかも、その選択を家族がしていることが多くて。本人の意思を尊厳するためにも「本人はどう考えるか」を一番大切に考えないといけないなと思う。こと、生死に関しては慎重にそう思う。

 

 

【雑記】MSWの仕事①

特に章立てで書く予定があるわけでもなく、最近の経験を記録として書いておこうと思う。

最近、立て続けに2人の患者さんご家族とじっくり話す機会を得た。

共通しているのは

  • 自宅に本人を帰してあげたい
  • 自分が介護できる自信がない

ということだった。この点は話す前からわかっていたご家族の気持ち。

でも、

もっと知りたいことがいっぱいあった。

なんで家に帰してあげたいのか、介護のどの部分に自信がないのか。自宅じゃない場所で生活を送ってもらうことを考えた時に不安なこと、嫌なことは何か…などなど。

 

詳細は書けないけど、とにかくとりとめもなく思いついたことをいっぱい話していただいた。最近、患者さん本人とのやりとりで感じたこと、傷ついたこと、嬉しかったこと、家にいた時はこんな人だった、こういうことをしていた、自分はこういう風な思いでこれまで接していた、などなど。

ご家族(キーパーソン)が持っている価値観やファミリーヒストリーから生まれた家族関係などなど、ソーシャルワーカーはものすごく色々なことを聴かせていただく。

 

そういうものの山積からご家族の訴えが出てくる。

「眠れないと言っても薬を飲ませないで」「家に連れて帰るにはトイレは自分でいけないと」など病棟にとっては本当に困る要求もあるけど、その訴えや要望の奥にはご家族の中で大事にしてきた価値観、介護経験の中で得てきた経験値がある。

ただ、そのことと、それを受け入れられるかはまた別。「わかりました。じゃあ薬は使いません」「何が何でも(転ぶリスクもとって)希望に沿って歩行させます」ということは簡単に言えない。

要望の裏に隠されているもの、本当に大事にしているものを汲み取って話し合って「本人にとってどうすべきか、どうしたら良いか」を探っていくしかない。

 

何時間もご家族の話を聴いていて、「聴くこと」がなければ相手の考えの根底や言葉の裏にあるものは読み取れないし、「聴いてもらった」経験を持たずにこちらの話をしっかり「聴く」こともなかなかしてもらえない。

 

「傾聴」って本当に難しいし、聴いた話には解釈が生まれてその解釈ゆえに誤解や見当違いも生まれてしまう。だけど、産業カウンセラーの勉強で学んだ、傾聴における共感的理解、自己一致、無条件の肯定的配慮がものすごく生きていることを感じる。

 

相手の考えに自分を重ね合わせるのではなく、「限りなく透明な自分」になって今目の前の人が振り絞って出す言葉一つ一つを聴いて、それを受け止めていく。返答もできないし、質問も出てこない。今それを受け止めていくことに集中する。

でも、それを続けることで相手の表情や感情が変化するタイミングがあって、その人なりの答えーー「ダメだったらやっぱり施設も考える」とか「やっぱり第一選択は在宅介護」とかーーが出てくる。

またその決意は変わるかもしれないし揺れるだろうし、一度の面談で何もかも解決したりわかることは絶対ない。

だけど、深い面談を一度でもすることによって気持ちや決意が揺らぐとき、変わるときにまた相談してもらえるかもしれない。

そのことが確実に支援の質を変えていくと私は思う。

 

カウンセリングに始まりカウンセリング終わる(面談に始まり面談に終わる、とでもいうか)と言えるくらい、ソーシャルワーカーの仕事って傾聴する面談なのではないか、と思う。

ただの退院屋、退院係じゃないよっていうね。

まだまだ面談の質が低くて先輩に指摘されて、あーーーーってなることも多いけど少しでも支援の質を良くしていけるようにスキルも知識もつけていきたい。

 

 

その「熱心」が苦しい

「ご家族は介護に熱心で、リハビリに積極的です」。

ケアマネージャーさんから得た家族の情報はこの一言に集約されている。一見、麗しい家族愛。献身的に30年近くも母と娘で父親を介護しているというある家族。

 

脳卒中による重度の麻痺を抱え、歩行にも支障がある父親。側方介助で家の中を伝い歩きして、外出するときは車椅子を押して…。

既往歴に糖尿病もあったけど、インシュリンは打ちたくないと、食餌療法ですっかりA1Cの値も下がったとか。

今回は、風呂場で転倒して圧迫骨折と大腿骨の骨折でほぼ動けない状態。

家族の目標は「歩いて帰って来ること、トイレも自分でいけること。ご飯も常食を食べられること」。

会話をしながら感じる違和感は、病棟での常軌を逸した要求で現実味を帯びた。

  • トイレは昼も夜も1時間半おきに
  • 水分量はペットボトルでml単位で測ること
  • 朝の洗面は7時に、温水で行い、歯磨きは自分でさせること
  • 食事は30分かけて誤嚥させないように
  • 靴下は2枚履かせる
  • 夕飯を食べ終えたらパジャマに着替えさせること

まだまだ数え上げたらきりがないのですが、このほかにも毎日、要求が増えていくご家族。

入院生活のルールや人員体制には御構い無しで自分たちが「こうして欲しい」と思うことを「こうして当然」と要求しており、できない=努力が足りない、誠意が足りないと特にか弱き、若き看護師さんをターゲットに怒鳴りつけるという有様。

 

リハビリは悪いものではなく、むしろリハビリを通して歩けなかった人が歩いて帰れたり、痛みがあって動けなかった人が痛みの回避や筋力アップで動けるようになったケースは数しれずあって、良いものなはず。

だけども、本人が望んでいることを通り越して家族のエゴイズムではないかと思うこともある。

特に本人はいたって普通の人で、トイレのタイミングも着替えのタイミングも自分が必要なときに言ってくださるし、家族には「いいから」と言ってたしなめてくださるのだが、それも家族には「父は遠慮しています」に変換されて誤った要求ばかりをして来るから困りもの。

 

あまりにも毎日病棟が振り回されているために、在宅の状況を確認したら冒頭の言葉があった。本人よりも家族がリハビリに積極的で家族のペースに本人が追いついていない様子も以前からあったと。

 

そして今回の入院で、「万が一、家の中も車椅子となった場合、お風呂やトイレも今まで通りではないかもしれません。一部、福祉用具を利用したりサービスを使うことも検討する必要があるかも」ということをちらりと醸したところ、奥様の顔が豹変。

「お風呂場はピカピカに磨き上げているの!そこに変な手すりなんかつけられたら溜まったものじゃないわ!黒ずみができないようにしっかり磨き上げているんですっ!!!!」

 

………。

 

返す言葉がなくてそのボールも拾いきれなかったけど、とりあえずツーバウンドくらいして転がったものは引き取ったよ。

この家族にとって、父親が一番快適に過ごせること、安全に健やかに生きていけることよりも、風呂カビの方が重大事なのだろう。

「リハビリをさせたい」という言葉の裏に何かもっと別の意味を感じてしまう出来事だった。

麻痺はリハビリで急に良くなることはなくて代償手段の獲得も大事なリハビリだけど、それを見ないふりして本人がとにかく動くことを強いるのは、私にはviolenceだと思った。

 

時々いるけれど、そして自分自身が子育ての中でそういう風に子どもに強いることがないか振り返るきっかけになったけど。

まだまだ来週からも向き合い続けていかなくては。

 

 

 

【雑記】ある高齢女性患者さんの嘆き

家事と子育てがメインに忙しく、ブログ更新ができない日々だけど、考えさせられるケースについて。ソーシャルワーカーとして、というよりも一人の人として。

ある認知症のおばあさんの話

おばあさん(Aさん80歳)と出会ったのは、私がほんのわずか出向していたグループ病院でのこと。夏の暑い日、ニコニコとして丸っとした可愛いおばあさんが入院してきた。

お孫さんと過ごしていた拍子に転んでしまい、腰椎圧迫骨折と手根骨折(手首の骨折)を受傷したとのことだった。

足繁く、旦那さんはお見舞いにきて、お孫さんも夏休みを利用してよく来てくれていた。

幸いにも、リハビリが進み、また痛みなく歩けるようになって杖も使わずに退院をしていった。要介護1が出たが、元気そのもの、ケアマネージャーさんと相談し、訪問リハを週1回くらい利用すれば、もうサービスがなくても、病前よりも元気になれそうというくらいに元気になっての退院だった。

ただ一点、MMSEという認知症状を把握するスケールでは18点とやや低め。それでも家族と生活するには十分にまだ在宅に問題ないというレベルと判断した。

少しだけ、家族が配慮できるといいな、という状況ではあり、それを旦那さんに伝えての退院でもあった。

それから程なくしてケアマネージャーから一本の電話が入った。Aさんがドアも開けてくれず、全くサービスの利用につながらない、と。

 

同居する旦那さんや娘さんにも会えるように頑張ると言って一旦は電話を切ったものの、本人の退院後受診の時に、来てくれるという。

退院した患者さんではあったものの、入院時との落差に不安を感じて私も対応に出た。

Aさんは退院からわずか2週間なのに風貌が全く違ってしまっていた。痩せこけて、足元はフラフラ。一番気になったのは表情の強張りだった。

私の顔は覚えていたようで(というか制服を覚えていたのに近い)、安心した様子を見せてくれたが、こちらから声かけすると、泣きながらこう話してくれた。

「あんなおじいさんのこと、みんないい人、いい人っていうけどちっともよくない。辛い。誰も私のことわかってくれない。あんなひどいおじいさんはいない。私のことを放っておいて出かけちゃうし、孫のことは見てくれないし、掃除もしないし。若い頃から遊んでばかり、借金したり女作ったり、どれだけ苦労させられたか。

なのに私に歩け歩けって、もっと動けるって。動けないことをわかってくれない」

概ねそうしたことを訴えておられ、苦痛を感じていることがよくわかった。旦那さんは通院にも付き添っていて確かに傍目にはとても甲斐甲斐しく見えるし、仲良しにも見えていた。

でも、彼女が抱えていた悲しみは深くて、大きかった。

入院というフィルターの中では明らかにされなかったし、孫のために早く退院したがっていたが、実際には家族に理解されない辛さを抱えていたのだ。

入院中、気づいてあげられなかったことも申し訳なく思うと同時に、こういう場合には何をしてあげることが彼女の助けになるのだろうと考えさせられた。

 

幸いにも相談できる上司が身近にいたために、「まずはここの通院後に、他に医療機関に繋げてあげること、地域包括の保健師さんに相談することが適切では」とアドバイスをもらい、報告をした。

ただ、彼女の日常は今も続くし、そもそもまだ何も解決の一歩にもなっていない。

ソーシャルワーカーとしてなんとも言えない無力感を覚えた。

と同時に、若い頃から苦労して子どもを育てて、シングルになった娘の子の子育てもして、日々いっぱいいっぱいで生きて来たAさんが、認知症になった時、Aさんの中の不安がものすごく大きくなっていった。その不安に寄り添ってくれる人が実は家族にいなかったということはなんて切ない現実だろうと思った。

決して悪い人ではない(と思える)旦那さんもAさんの認知症を理解するにはあまりにも年老いていたし、働き盛りの娘さんは一緒に食事を摂るタイミングもない。お孫さんはまだそうした状況を理解するには若すぎる。

いろんなことが少しずつずれていた。

 

私は彼女の孤独や不安を聴きながら「それでもあなたはここでいくらでも話していいし、よく頑張って来たし、素敵だよ」という以外にかける言葉がなかった。何も慰めにはならないけども。

 

自分が離婚を決意したことの一つに、このまま婚姻関係を続けて自分の夢を少しずつ諦めて、相手にも諦めさせて、そんな非クリエイティブな生き方を選んで、私はこの人を恨むのだろうか。恨むかもしれない。

だとしたら不誠実だ。と思った事が大きい。なぜ不誠実かというと、知ってて婚姻関係を続けたから。そしてその言い訳を「子どもがいたから」なんて言った日には、子どもに首を絞められそう。ていうか、私が子どもだったら「誰も頼んでない!」と激怒するに違いない。

 

Aさんはきっと、もっと純粋に一生懸命、おじいさんのため、子どものため、孫のために生きて来たのだろう。私のように自己中心な考えがないからこそ、今すごく辛いんだろうと思う。

 

今からでもAさんの人生(時間、命)を、Aさんのために自分のために使っていいんだよって少し思った。

それが結局は家族のために向かうかもしれないし、日がな一日、テレビを見て過ごすことかもしれないし、人それぞれだけれども。

誰かのために生きる時間も、それが自分の生きがいや喜びにならなければ、結局辛くなる。

 

ソーシャルワーカーとして考えさせられると同時に、自分の価値観がものすごく出そうになるケースだった。それってものすごく危ないし、それに気づいていかないとね。

 

 

 

 

 

【児童福祉】結愛ちゃん虐待事件に思うこと〜地域包括とは〜

今年3月に亡くなった目黒区に住む5歳の結愛ちゃん。

連日報道されており、ノートに記された言葉に本当に誰もが言葉にならない悲しみ、痛みを感じていることと思う。

私も心の整理がつかない。

この記事は母親の優里容疑者、父親の雄大容疑者の足跡を丁寧に取材してまとめてあった。↓

www.huffingtonpost.jpいろいろと思うことも多い。

おそらく香川県では地域の警察の役割が果たされており一時保護につながっている。父親は検察にて不起訴処分になっており、更生を望んで、など様々な理由があったのかもしれないが、それでももう少し注視する仕組みはないものか、など考えさせられた。

何が引き継がれて何が引き継がれていなかったのか、父親の仕事の都合で目黒区に引っ越してきてからの品川児相の対応で不明な点が多い。

児相側にもいくつもの言い分があるのだろうが、人一人がなくなっている以上、結果責任は免れ得ないだろうと思う。

ただ、児童相談所に何もかもの責任を押し付けてしまうのは絶対に違うだろう。

NPO法人フローレンスのファウンダーの駒崎さんのブログに詳しいが、東京都は虐待案件の全件共有を警察と行っていないのが実情。

www.komazaki.net

虐待の通報が入ったら

①189に通報→つながる窓口は児相や福祉事務所、市町村

②内容を鑑み、緊急受理会議を行う

③緊急度や必要性に応じて一時保護

 

というのがオーソドックスな流れ。

これは全国共通で、厚生労働省が定めている「こども虐待対応の手引き」にあるものだが、児童福祉に対して国の政策が脆弱すぎることはよく指摘されている。で、どれくらいどんなものなのかと思ってみてみると...

 以下厚労省から出ている文書。

厚生労働省 家庭福祉関係予算案の概要

全体では微増、といったところ。ただ、中には一部減らされている予算もあったり、個別で見ると本当に僅かに予算が取れているけど現実的な解決ができるのかしら?と思うような割合のものもあったり(児童虐待・DV対策等総合支援事業:47億円)。

 

社会的養護の現状について

保護されて施設などで生活する子どもたちの環境整備にも少しずつ、改善の兆しがある(のかしら??)。

ただ、たとえば施設の職員配置一つとっても、大舎制のところは職員1人あたりの児童数が4.43だと!

純化しちゃいけないけど、よくある高齢者の介護施設で1:3が一般的によくある人員配置でそれより見る数が多い。

シングル家庭で子どもが5人くらいいる計算??

と単純に思って驚いてしまった。しかも、一人ひとりが兄弟でもなく、背景もまるで違い、課題も違うとなってくるといくらベテランのワーカーでも大変すぎるのではないか、と心配になってしまった。

と職員配置だけ見ても、いくら予算が少し増えて、少しだけ環境が改善されていても「良くなった」という実感は持てないだろうなと思う。

全体的にかける予算が少なすぎるのではないか?とも思ってしまった。

 

社会福祉士の資格を取る前からずっと思っているのだけど、夫婦だけで子どもを育てるってすごい大変。

介護も昔は嫁だとか妻だとか娘だとか(なぜか多くが女手)でやるものだと思われていたところから、要介護者にはケアマネージャーが介護プランを立てて外のサービスを使ったり家の中のサービスを使って要介護者の生活を支えていく仕組みが整ってきた。

それでも時々、介護殺人が起きる悲しい現実もある。

 

子育てだって同じだと思う。ときには養育者のレスパイトもあったほうがいいし、共働きだったり夫婦以外の協力者がいない家庭に対してはケアマネージャー的な人が養育プランとか親と一緒に立ててくれればいいのに!って思う。

娘や息子の養育にはほぼ、実母と保育園で乗り切っているわけだけど、月に何日利用して、利用しない間はどういうサービスが使えて、みたいなのがあると急な病気のときにも病児保育を使うことがもっとスムーズにできるだろうし、何より子どもの成育に親族以外の人も介入して、色んな人に愛されて育つってことができて、すごくいいのではないかと思う。

子供のためのケアをしてくれるヘルパーさんみたいな人が1日に30分×2回でも来てくれたらその間にお母さんはお母さんのためのことが少しでもできるし、悩み相談もできるだろうし。

 

今、高齢福祉で充実している地域包括支援センターと市区町村、居宅介護支援事業所、各種施設の連携を児童にも横展させてほしい。

ていうか、そうすればだいぶ虐待って防げるし、児相だけに何もかもを押し付けてしまうことも、警察とさえタッグを組めば、ということだけでもなく、「包括的に」救っていけるんじゃないかと思う。

だって、警察が介入できるのは刑事的な事案が主だけど、福祉は生活の中に介入して課題を解決していける面もあって、みんなで取り組めればいいなって思う。

 

って、これ社会福祉士の卒論みたいなものでも書いたのだけど、NGなのだろうか。

そもそも地域包括支援センターはあらゆる福祉を総合した機関のはずだけど、高齢福祉に特化してるのも問題だなと思うし。

地域包括とかそれより細かな居宅(の事業所)レベルで児童福祉の網の目が張れればすごく良いと思う。

 

児相の現実を描いたこの新書、事件報道の数日前にたまたま読み始めていて、すごくタイムリーだった。

こういう現実を知らないと何も言えないなと思った。

 

ルポ 児童相談所 (朝日新書)

ルポ 児童相談所 (朝日新書)

 

 

【MSW】スーパーバイザー

MSWになってあっという間に1年。

今までいた大手IT企業の目まぐるしさとはまた違う忙しい日々。

一番の変化は「人」だった。うちの病院だけの話なのか、MSW全体の傾向かわからないが、毎月人がコンスタントにやめていった。それは美しいほどに。

理由はそれぞれだったと思うが、零細〜大手、外資までいろいろな会社で働いてきた私にしてみれば一見して「人事のまずさ」を感じた。

事あるごとに声を上げてみたものの、まあ新人の声などどうにもならないし。

気がついてみれば、私も一人で1病棟を任され(?)ひとまず、一番の頼るべき相手は病棟師長。

同じ部署の上司とのホウレンソウなど存在せず。

誰それの退院支援に困っているとか制度の説明がうまくできないとか、そういうことは誰に相談したら良いのかよくわからないままの1年だった。ただ、こんな荒野のような職場でもかすかな希望というか光だったのは、他院から期間限定で来ていたベテランのMSWから薫陶(といえば聞こえは良いが)を受けたこと。

 

少なくとも、スーパーバイザーもいない中、初心者がやっている相談支援なんて患者さんの損失なのではないかと思っていたが、ベテランのどのMSWに聞いてもスーパーバイザーがいて怒られながら進んできたという。

やはりか。

私のMSWなんてこの1年、所詮は独り善がりだったんだなと反省。

2年目は1年目ほどのわけわかんなさはないかもしれないが、2年目なりのわけわかんなさと焦りの中をどうにか、スーパーバイザーも探しながら進んでいきたいと思う。

 

MSWという仕事柄、自分の課題を解決していく、自分で解決できない問題を他者とともに解決していく、という相談相手に対して行っていることを自分にも行わないと意味ないような気もしている。

お膳立てされていない環境だからといってそれに腐っているようでは単なる青い人になってしまう。

この歳でそんなはなたれ小僧なことも言っていられないし、学び、考え、進んでいこうと思う。

 

MSWとして全くのまだまだ形にすらなっていない。ただ、1年働いてみて、医療チーム、連携ということを考えさせられたり、そのチームワークの片鱗を感じ取れることは幾度もあった。

そのことはすごく感謝だし、それなのにそういうメンバーと働けない惨状(みんなやめたり他院に行ったり)で出会いと別れを繰り返すという当たり前の現実にもぶつかったり。

 

だから、自己学習でまずは第一歩を。

この本はすごく良かった。

 

「相談力」入門―対人援助職のためのコミュニケーションスキル36