MSWのこぼれ話

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【医療ソーシャルワーカー】担当者会議の現場

まだまだ、ひよこにもなりきれていないので「外から見た」担当者会議の現場と表現するほうがふさわしいが、担当者会議に出席して感じたことをまとめたいと思う。

担当者会議とは

社会福祉士とひとくくりに言っても、さまざまあるように担当者会議といってもMSW(Medical Social Worker)とSSW(School Social Worker)、施設の生活相談員などで少しずつ異なる。ここでは医療現場での話にしたいと思う。

 

退院前のカンファレンスの一つに担当者会議がある。必ず開かれるものでもないが、とくに自宅に帰る場合などは入院前(自宅で暮らしていたとき)と患者さんの状態が全く変わってしまっていることがある。そうしたときに必要なサポート、キーパーソンとなる人物の確認などが改めて重要になる。

ある事例から

さて、先日退院したAさんのケースから。
Aさん(70歳)は元気で家のことはなんでもしていた女性だった。病気らしい病気もしたことがなかったが、冬に脳梗塞を発症。麻痺の程度が重く、今は失語症と右半身の麻痺(完全麻痺)をおっている。ADLの自立はとても見込めず、座位も保てないほど。

一人息子さんを亡くしていたこともあり、夫は妻である患者さんの自宅退院を強く希望。そのために必要なサポートと現在のAさんの状況、状態を確認するための担当者会議が開かれた。

担当者会議で話したこと

担当者会議には病院側からMSW、ナース、OT、在宅支援の立場からケアマネジャー、訪問看護スタッフ、訪問リハスタッフ、地域包括の主任、夫、夫婦の友人が出席した。

現在のADLや食事の介助度、排泄などがナースから報告され、それに在宅の訪問看護スタッフが質問をして話が深まり、進んでいった。病院ならスタッフも環境も整っているが、自宅での介護となると、たとえばベッドから車椅子にトランスすること事態が非常に重労働で夫一人では難しい。食事一つとっても、在宅で3食をどう食べていただくか、とても頭を悩ますところである。

今回担当のケアマネジャーさんは、Aさんの状態を見て在宅は困難と判断。かなり強引に施設を進めてきたり、高級な車椅子購入を推し進めたりとカンファ前からヒヤヒヤさせられていた。

担当者会議のときには、「ご主人はどうしても在宅ってことですので、その方向でケアプランを精いっぱい考えさせていただきます」と話してくれたのでほっと一安心だったが、施設入所は諦めきれないようで「とりあえず在宅ですが施設も視野に入れたサービス利用も...」など話していた。

 

各担当者から病院のスタッフへの質問や確認が今回の会議のメインであったが、その中でも改めてAさんの症状の重さを認識させられる事となった。

・時間の感覚はなし

・人もわからない(夫のことはかろうじてわかる)

・意に反すると叩いたり蹴ったりする

・言葉は全く発せられない

・口も開かない

・一日の半分以上はベッドで寝ている

 

などなどであった。

大切にすべきこと、やるべきでないこと

今回の会議でまず、考えたのは夫とその友人の存在のことだ。

専門スタッフは専門用語も重度の麻痺の残った患者さんの対応も慣れている部分があり、「こういう場合はこういうサポート」という図式のようなものが頭に浮かぶ。今回のケアマネさんの対応はまさにそうだったのではないかと思う。
重度の麻痺のある患者さん=施設入所。
夫一人で看る?無理無理!!と。

そう思いたくもなるし、経験からの善意の提案であるのだろう。

だが、夫は「まずは妻とゆっくり暮らしたい」という切実な思いがあった。それを精一杯支えたいという友人の存在もある。

MSWは、この「思い」を最初に、そして最後まで大事にしなければならない。

私たちは生きていて、いくつもの分岐点に立たされ、何かを選択して何かを諦めていく。

たとえば闘病中の小林麻央さんは在宅での治療を選んでいる。それは彼女にとって安らげる場所、病気と闘える場所が自宅だからだろう。幾人もの手を借りつつも彼女にとっての、家族にとってのベストは家だったのだ。医療機器もほぼなく、専門スタッフがいなくても、必要なのは家族ということなのだろう。

 

翻って今回のケースでも夫にとって妻はたったひとりの家族であり妻なのだ。

息子を亡くし、辛い思いをしてきたから「妻と時間を過ごしたい」という夫の思いがあった。これをどうやって最大限サポートしていくか。そのサポートをより良いものにするためにも、担当者がお互いを信頼しないといけないし情報共有をして思いを、モチベーションを合わせていくことが大事なのだろう。

 

会議の性格ゆえ、専門用語でAさんの状態を確認しあうのは致し方なかったが、友人が呆然としておられる姿をみて、何かのフォローが必要だと感じた。そこに、地域包括の主任の方がそっと近づいて「Aさんが家に戻ったら◯◯のようにしてみましょうか」など、とても前向きでそして包み込むような口調で提案をしてくださっていた。ようやく夫も友人も表情がほぐれたが、こうしたさりげない言葉かけも大事だと感じた。

 

Aさんは言葉も出ないし、あれもこれもできない、という側面もあるが一生懸命に反応し、気持ちを表し、生きている。

何もかもできたときを知る夫や友人にとってこの現実の落差に気持ちが追いついていくか、彼らのメンタルが心配ではあるが、今のAさんもとても素敵で、きっと病む前よりも素直だ。

いろいろなことに思いを馳せつつも、シンプルに、「患者さんとご家族の気持ちに立って」を支援の中心において働いていきたい。

 

 

 

 

【読書】「孤独」から考える秋葉原無差別事件

秋葉原無差別殺傷事件とは

 東京地裁の検察側の冒頭陳述より事件の概要を紹介したいと思う。

本件は2008年6月8日、秋葉原のメーンストリートで、歩行者天国が始まって間もない午後0時半ごろ、被告が2分間に合計18人に対して、殺害行為に及び、7人の命を奪い10人に重軽傷をおわせるなどした事案。

「孤独」から考える秋葉原無差別事件 資料より

 加藤智大という当時26歳の若者が白昼、都会のど真ん中で起こした事件としてセンセーショナルに報道され、いまだに記憶している人も多いだろう。無差別殺人でもあり、社会全体に怒りと悲しみが広がったこの事件、「極悪非道の若者の犯罪」で片付けることのできないたくさんの宿題を、課題を社会に残した。

本著は加藤被告が事件を起こすに至ったそのエッセンシャルの部分に踏み込んで対話形式で展開していく。

数多くの被害者や今もなお後遺症で苦しむ方々にとって「悪魔」でしかない被告であろうが、被告が「悪魔」に至るまでには26年という月日と彼の置かれた生育環境はとても深い根でつながっている。

 

事件を一言で表現した言葉

どこかで聞いたことがあったかもしれないが、本著を読んで改めて衝撃を受けたのは、この事件を誰よりも深く洞察し、捉えていたのは被告にほかならないという事実であった。

加藤被告は、

「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし、難しいね、誰でも良かった、なんかわかる気がする」

と事件前に携帯サイトに書き込んでいたという。

ちょっとこんな表現は思いつかない。私のような凡人にはおそらくこんなスパッと言い当てるような言葉は到底出てこない。

本著の著者、芹沢俊介氏もこの言葉に非常なショックを受けたと述べている。

 

この言葉は親と加藤被告の距離を言い当てているのではないかという仮説で芹沢氏と高岡健氏が考察を重ねている。

 

加藤被告の生育の手がかり:行動化

加藤被告は就学前から「虐待」を受けて育ったという。トイレに閉じ込められる、上階から落とされる、小学校に上がると、鉛筆の削り方が悪いと芯を折られて削り直し、九九を間違えると湯船に顔を押し付けられる、トイレの水を飲まされる、食事が遅いとチラシに料理をぶちまけられ、食べるよう強要される...虐待の実態は枚挙に暇がない。

 

母からの虐待は形を変えて続く。進学する大学のレベル、資格などなど親からの要求が続いていく。自殺企図もあり、一度は「家族」の再構築を試みるが、両親の離婚により本当に深く加藤被告は傷ついていく。

こうした母のあり方は「行動化」というらしい。

たとえば、「鉛筆の削り方が悪い」と思ったら、おそらく、一緒に削ってあげて言葉で説明して...を繰り返して、本人ができるようになるのを見守ると思うが、だめ=芯を折るというのは非常に暴力的でダメなことに対して懲罰的に行動に出てしまう、躾の仕方だったらしい。

躾とはいえず、虐待と言えると思うものだが...。

 

いずれにしても行動化してしまうことで子どもの心身に深い傷を残すし、その傷がまだ新しいうちに次の傷がついて、手当もされないまま放置されてしまうと子どもの心は静かに死んでいく。

親殺しの前に子殺し

この事件とは少し違うが、青少年の親殺しの事件というのが時々ある。芹沢氏は「親殺しの前に親による子殺しがある」と分析するが、その通りなのではないかと思う。加藤被告の場合もまた、親によって精神的、心理的には殺されていたといえるだろう。

加藤被告は両親について「両親とは精神的つながりのない家庭で、ほぼ他人だが、他人ではない」と複雑な思いを込めて語っている。

この親にとって子どもはどのような存在だったのだろうか。

どんな親でも子どもにとって親は親。だけど、どんな子どもでも親にとって子どもは子ども。大事な存在だと思えているのだろうか。

もしも思えていたとしても、人は虐待をしたり自分の理想を押し付けたり、価値にはめ込もうとする。

それってすごく悲しいこと。

そして、子どもを殺しかねない。精神的にも、時には肉体的にも。

そうならないためにもこの本から親子関係というものを、人というものを深く見つめることが重要なのではないか、と思う。

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「孤独」とは何か

本著を読んで気付かされたことだが、本当の孤独は「拠り所」のないことである。

たとえば、わかり易い例として家族がいて、その一歩外に会社の同僚とか友人とか、親しい日々の付き合いをする人がいる。

もしもその一歩外の世界にそうした存在がいなくても「ここに家族がいる」「これが私の家庭」という存在があり、そこがやすらぎならば、「ひとり」という空間や時間があっても真の孤独ではない。

でも、もしもその真、核となる拠り所がないと人は孤独を感じる。それは、一歩外の世界に友達がいても、仲間がいても。

 

宗教はその「核」を埋めてくれるもの。

私はずっとそう思っていた。

ちょっと余談になるが、私自身はキリスト教徒だが、聖書の神様がその「核」を埋める存在であるというのは否定しないが、それは一部であって全部ではない。残念ながら。

よく言われることだが十字架の縦は神様との関係、横は人との関係である。

神様は、神様と私、という関係を大切にしてほしいと願っているが同時に私とあなたという横の関係も大事にしてほしいと願われる方である。

 

横の関係の中で埋められない思いを縦の関係で満たすのではなく、横の関係を築くことを望んでおられるのが神様なのだと思う。

残酷といえば残酷。でも、それは神様の誠実さでもあると思う。

私たちはあるべきところにあるべきものを置かなければならない。ほかのもので穴埋めしたり、その場しのぎで置くことは、長い目で見たら良いことではない。

 

話を戻すと、加藤被告が親との関係の中で埋めることのできなかったもの、親との関係の中でずたずたに壊されたもの、壊れたもの...事件はその最後に必然的に出てきた彼なりの、親から学んだ「行動化」にすぎない。

「孤独」から考える秋葉原無差別殺傷事件 (Psycho Critique)

 

 

 

 

【読書】「家族という絆が絶たれるとき」

家族という巨大ないきもの

家族というものを語ったり分析した本は世の中に数多ある。本著では、家族を家族と子ども、家族のこころ、家族のからだという捉え方でまとめたものである。おもには、いじめをふくむ少年犯罪を軸に展開している。

 

家族と子どもより

家族と子どもの章の中に興味深い分析があった。ここでは親殺し(未遂も含め)、少年少女が「性」という視点から捉えている。筆者は章の冒頭で

ことによるといま、男の子も女の子も、それぞれの相補的存在でみなされることを、さらには対的存在の前段階に位置づけられることをも、厭いはじめているのではないだろうか。

と指摘する。この背景には女性の社会進出だとか一億総活躍だとかといった政策や社会の風潮も関係している気がするが、それだけではないようにも思う。

最近の傾向(かどうかはわからないが)ことさらに「男性である自分」「女性である自分」というのをアピールする若い人たちに出会うことがある。

私は普段、そうしたことを深く意識しないせいか、閉口してしまうが、「かわいい」

「きれい」といった通り一遍の褒め言葉を多用して「今日も『女性として』うつくしい」というジャッジが学校で、職場で同性の同僚、クラスメートの間で交わされる。こうしたことに対する拒絶反応をもつ人に対して「そういう人もいるよね」という余地を狭い社会は残してくれない。彼ら・彼女らの居場所はないように思えてしまうのではないだろうか。

母親に自分の存在がまるごと受け止められたという「受け止められ体験」が希薄であるとき、子どもは次の段階へ進めない。受け止め手としての母親に出あえない子どもは、男の子であれば、父親と出あうことができない。父親に出あえないということは、社会性としての自分を父親との葛藤をとおして手に入れていく、その機会を得られない......中略......

女の子は、おそらく同性への同一性の感覚を肯定的に獲得できないのではないか。

 

こうした分析も議論の余地はあるだろうが、傾向としては否めないような気がする。先日、保育園に通う3歳の娘のお迎えに行くと、私の顔を見た途端に泣き出した。どうやら、遊びの中に入りたくて、すっと娘が輪に入ろうとしたところ、遊んでいた子どもに「『一緒に遊ぼう』って言わないのに勝手に入ってこないで。」と言われてしまったらしい。

 

娘にとってはショックな出来事。おもちゃを勝手に取ったわけでなし、同じ保育園の中でどんなふうに遊びに加わっても良いような気がする。

帰り道、泣きべそをかく娘を抱っこしながら「そういうふうに言われてすごく悲しくなったんだね。ママはね、嫌な思いをしてまでその中で遊ばなくてもいいと思うし、その子に謝るとかまた仲良くねっていうのも違うと思ってる。

また遊びたくなったら『一緒に遊んで』って言えばいいよ。でも、悲しくなって嫌になって、無理やり遊ぶことはないんだよ」と伝えた。

正しいかどうかはわからないが、大事なことは娘が傷ついた自分の心を自分で受け止めて自分なりに人との距離をもてるようになることであり、私自身は娘がたくさんの人と仲良くなることよりも、人との関わりの中から多くを学べる子になってほしいと思う。

受け止め手として、未熟であり不完全だけど、親としてはまるごと以外に子どもを受け止めようがない、のも実際のところである。

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家族のこころより

さまざまなテーマが入っているこの章。この中で子どもの問題行動について

「治療」と「指導」でせめたてられる子どもたちの様子が浮き彫りになっている。「言うことを聞かない子ども」に対してたたいてしつけをする親たちの4割近くが「叩いてよかった」とアンケートに答えているという。これは結構驚く結果だった。

そうか。こんなに肯定的に叩いて教育する考えがあるのか。暴力を肯定してしまうのか。と。

 

また、子どもの「問題行動」を親も受け止めきれず、「素直な子どもになるように」と精神科に連れて行くケースもあるという。

当事者でないとなかなか理解できないかもしれないが、叩くことも子どもを理解できないことも親にとっては「それ以外に何も選択肢がない」という思いの結果だと思う。精神科に行くとか、相談するという知恵があるぶん、マシな気もする。

かくいう私はどんな些細な場合でも叩くのはよくないと思っている。だけども、自分の気持ちに鬼のように(文字通り)怒りが募って手が出てしまうことがある。力ずくで座らせたり立たせたりという感じで叩く、というのとは違うものの、娘に恐怖心を与えている時点で「最悪だな」と自分に思うし、娘に謝るけども、子どもの心を壊してしまっていることは変わりない。

 

「問題行動」が果たしてどういう種類のものなのか、どう家族は対応できるのか、この本には家族の側への何らかの救済案はなかったが、行動を起こす子どももまた、言葉にならない思いを抱えていると思う。

アドボカシーという考えがあるが、ソーシャルワーカーとして正しくadovocateしていくことが求められるだろう。

 

家族のからだより

親はほとんど条件つきでなくては、子どもを可愛がることができない。逆に子どもはどんな親であっても自分の親だからということで心のどこかで好きなのである。

ほとんど無意識にそれこそ選択肢などなく、子どもは親を喜ばせたいと思っていて健気なまでにがんばる。「良いんだよ。大丈夫よ。何があってもあなたは大事な子どもだよ」とくりかえし、くりかえし伝えて何度でも港になって、子どもが帰ってこられる場所になることが大事だと思う。

元夫の両親はそうしたことがどうしてもできず、今もできないがゆえに元夫にとってそうした港をもたないまま、今も帰る心の場所がない。

子どもにとって親はいつでも戻れる「場」でありたいと思う。

家族という絆が断たれるとき (サイコ・クリティーク)

 

 

【読書】「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち」

 

本題に入る前に

発達障害に関する本というと、学者が論じているもの、福祉職従事者の現場の声、家族が語っているもの、わずかに当事者が語っているものがある程度で全く関わりのない人が語ることは少ないのではないだろうか。

 

自閉症そのものは何十年も前から学校や病院などでは認識のあったものだと思うが、「スペクトラム」というある程度の範囲、幅をもたせた呼び方というのはそれほど古いものではない。

事実、1990年代になって「自閉症スペクトラム」や「アスペルガー症候群」といったことの研究が進んできた。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy1926/75/1/75_1_78/_pdf

自閉症スペクトラム指数日本語版の標準化)

 

自閉症状を持つ人との数少ない出会い

多くの人は自閉症という言葉を聞いて、どんな人のどんな症状を思い浮かべるだろうか。私が初めて出会ったのは小学1年のときのこと。同じクラスのMちゃんとその双子のきょうだいのYちゃんがいて、Yちゃんは制服を着てバスに乗って学校に通っていた。当時はYちゃんがすごく大人でお嬢様にみえていた。後から知ったことだが、Yちゃんは養護学校に通っていたらしい。

Mちゃんは同じクラスだったけど、私はMちゃんの声を聞いたことがない。

1つだけ覚えているのは、ひらがなの練習で「あ」が鏡文字になってしまったときに泣いていたこと。恥ずかしい気持ち、悔しい気持ち、私にもあるからすごくよくわかる!と心のなかで語りかけたこと。

もう1人は5歳ほど年下の男の子。校内の養護学級にいて、一言もことばを発しなかったけどすごくかわいくて、全校遠足のときにその子と手を繋ぐことが決まったときは、一日限りの弟ができたようでうれしかったことを覚えている。

 あとは、自閉症とは違うが、小学生の時に参加していた夏のキャンプに知的障害児が参加していた。リーダーのフォローを受けつつ過ごしていたが、あの頃の私に彼らがどんなふうに世界を把握し、何を考えたり感じているのか想像もしなかった。自分の感覚とほかの人の感覚が違うかもしれない、ということすら思いもしなかった。恥ずかしながら。

ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち

 さて、今回紹介する「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち」は、おもに大人の自閉症の人々をテーマにしている。著者は社会学者だが、ただ社会学の研究対象として自閉症を見ているのではなく、著者がごく個人的な出会いによって大人の自閉症スペクトラムの人とつながり、徐々に彼らのもつ世界を見て感じ取ったもの、考えたこと、調べたことなどを言葉にまとめたもの、という方がふさわしいような内容である。

この本のタイトルが「自閉症アバターたち」となっているのは、本に出てくる人物(自閉症の人)たちが「セカンドライフ」というVRを体験できるPCゲーム(SNS)でつながり、社会を築き、会話をたのしんでいるからだ。

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意外と知らない大人の自閉症

私達が自閉症と聴くと思い浮かべるのは大人よりも子どものことのほうが多いのではないだろうか。私自身の思い出に引っ張られているのかもしれないが、著者の池上氏も大人の自閉症研究が少ないことを著書の中で指摘しているから、あながち間違いでもない気がする。冒頭に述べたように、自閉症スペクトラムという言葉自体もここ20年ほどで言われるようになったものである。

自閉症の子どもたちも大人になる。主婦であったり、パートタイムで働いていたり、学生だったりと※1「定型発達者」と同じように社会生活を営んでいる人が多い。もっとも、研究の舞台、事例の当事者たちはアメリカ人なのでアメリカの社会基盤、教育等によるところも大きいのかもしれない。

※1 本著では、いわゆる発達障害を抱える人を「非定型発達者」それ以外を「定型発達者」と区別して呼んでいる。

本の中に出てくる「セカンドライフ」のアバターを通して語られる自閉症の人の幼少期から青年期は、大なり小なり苦労が多い。いじめにあったり、親に理解されない孤独感があったり、それを表現するすべがなかったり。とくに、じっとしていられない、動かずにいられない子にとって、頭ごなしに叱られるときの気持ちは、なんとも悲しいものであったのだろうなと思う。

 

「非定型発達者」と便宜上名付けられた自閉症の人たちは、成長に伴い少しずつ「定型発達者」と呼ばれる人の基準に合わせて生活をおくるように自分をコントロールするようになる。

彼らがどんなふうに景色を見ているのか、どんな世界に身をおいているのかは本著に明らかだが、たとえばある文字は色で見えていたり、ほんのわずかな接触でも非常に苦痛や痛みを感じる過敏な状態だったり。

自閉症の赤ちゃんが「抱っこもさせてくれない」といった親の声を聞いたことがあるが、その背景には子どものこうした感覚過敏があることがわかる。

印象的な言葉

本の中で、とても印象深い節があった。

※2 NTの人たちからすると、自閉症の人はこれもできないあれもできないという見方になりがちだが、仮想空間で遭遇した自閉症の人々が語っている内面世界は、情報を過剰なままに取り込んでいる強烈な脳内景色、ハイパーワールドだった。つまり自閉症の人は過剰なまでに強烈に見、聞き、そして世界を感じているのかもしれない。どうしてそうなるのかその原因はまだ霧のなかだけれど、自閉症アバターの人々が、自分のハイパーな脳内世界を感じ取っていることは確かなようだ。

 

 「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち」P.259

※2 NTとは定型発達者のこと。
おそらく、忠実に誠実に自閉症の人たちが見ている世界を再解釈して言葉にしたら、こうなるのだと思う。本を読み進めててなんだか腹落ちした箇所でもある。

同じ世界に生きてても違う景色を見ること

私たち、少なくとも私は同じこの社会に生きている人がほぼみな同じような世界を見て、聞いて共有していると思っていた(結婚してみてそうではないことはわかったけれども。そのことはまた別談にて)。

自閉症の人が見ている世界がこんなにもリッチで彩り豊かで素晴らしいものだということは全く想像もしなかった。

一般社会の常識、共通認識からはずれたもの、欠けるものというアプローチで「発達障害」というレッテルを貼ってなんとか取り込もうとするけど、そもそも自閉症ってなんだっけ、どういうふうにこの世界を捉えているのだっけ、ということを知ろうともせずに「同じに」「普通に」なることを求める社会は息苦しい。

 

非定型発達者であっても、そうでなくても、そもそも私たちが捉える世界はそれぞれ少しずつ違う。何に反応し、何をポイントに置くかも人それぞれ。その差が大きかったり小さかったりという幅はあるだろうし、現状は定型発達者が中心に社会秩序を作っているから、非定型の人たちもそのフォーマットに従った生き方をしているけど、それが正しい/間違っているという二元でくくれない。

 

アメリカは「自由の国」と呼ばれるだけに、才能を伸ばせる場所がある(ようだ)。日本の教育現場では今のところは支援級と普通級と分けていて、非定型の人の世界観に触れる機会は少ないのかもしれないけど、私が小さい頃に想像をできなかったさまざまな特質を持った人の背景にあるもの、とらえているものを子どもには知ってほしいし出会ってほしいと思う。

ハイパーワールド:共感しあう自閉症アバターたち

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このブログについて

社会福祉と無縁の世界で生きてきた社会福祉士のひよこが関連する本やニュースから考えたこと、仕事で得た知識などを書いていきます。

 できる限り、嘘のない記事を書いていくつもりですが、ファクトに誤りがありましたらご指摘ください。

プロフィール

大学を卒業後、出版社に勤務。編集、記者を経てWebメディアの世界へ。刺激的で変化に富み、苦手な数字と格闘するデジタルの世界で仕事に邁進するも、日々虐待で心も体も精神も傷つけられている子どものニュースを見るたびに胸が痛く、社会福祉の勉強を2015年にスタート。

2017年に社会福祉士の試験を受けて合格し、社会福祉士にキャリアチェンジ。