【読書】「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち」

 

本題に入る前に

発達障害に関する本というと、学者が論じているもの、福祉職従事者の現場の声、家族が語っているもの、わずかに当事者が語っているものがある程度で全く関わりのない人が語ることは少ないのではないだろうか。

 

自閉症そのものは何十年も前から学校や病院などでは認識のあったものだと思うが、「スペクトラム」というある程度の範囲、幅をもたせた呼び方というのはそれほど古いものではない。

事実、1990年代になって「自閉症スペクトラム」や「アスペルガー症候群」といったことの研究が進んできた。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy1926/75/1/75_1_78/_pdf

自閉症スペクトラム指数日本語版の標準化)

 

自閉症状を持つ人との数少ない出会い

多くの人は自閉症という言葉を聞いて、どんな人のどんな症状を思い浮かべるだろうか。私が初めて出会ったのは小学1年のときのこと。同じクラスのMちゃんとその双子のきょうだいのYちゃんがいて、Yちゃんは制服を着てバスに乗って学校に通っていた。当時はYちゃんがすごく大人でお嬢様にみえていた。後から知ったことだが、Yちゃんは養護学校に通っていたらしい。

Mちゃんは同じクラスだったけど、私はMちゃんの声を聞いたことがない。

1つだけ覚えているのは、ひらがなの練習で「あ」が鏡文字になってしまったときに泣いていたこと。恥ずかしい気持ち、悔しい気持ち、私にもあるからすごくよくわかる!と心のなかで語りかけたこと。

もう1人は5歳ほど年下の男の子。校内の養護学級にいて、一言もことばを発しなかったけどすごくかわいくて、全校遠足のときにその子と手を繋ぐことが決まったときは、一日限りの弟ができたようでうれしかったことを覚えている。

 あとは、自閉症とは違うが、小学生の時に参加していた夏のキャンプに知的障害児が参加していた。リーダーのフォローを受けつつ過ごしていたが、あの頃の私に彼らがどんなふうに世界を把握し、何を考えたり感じているのか想像もしなかった。自分の感覚とほかの人の感覚が違うかもしれない、ということすら思いもしなかった。恥ずかしながら。

ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち

 さて、今回紹介する「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち」は、おもに大人の自閉症の人々をテーマにしている。著者は社会学者だが、ただ社会学の研究対象として自閉症を見ているのではなく、著者がごく個人的な出会いによって大人の自閉症スペクトラムの人とつながり、徐々に彼らのもつ世界を見て感じ取ったもの、考えたこと、調べたことなどを言葉にまとめたもの、という方がふさわしいような内容である。

この本のタイトルが「自閉症アバターたち」となっているのは、本に出てくる人物(自閉症の人)たちが「セカンドライフ」というVRを体験できるPCゲーム(SNS)でつながり、社会を築き、会話をたのしんでいるからだ。

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意外と知らない大人の自閉症

私達が自閉症と聴くと思い浮かべるのは大人よりも子どものことのほうが多いのではないだろうか。私自身の思い出に引っ張られているのかもしれないが、著者の池上氏も大人の自閉症研究が少ないことを著書の中で指摘しているから、あながち間違いでもない気がする。冒頭に述べたように、自閉症スペクトラムという言葉自体もここ20年ほどで言われるようになったものである。

自閉症の子どもたちも大人になる。主婦であったり、パートタイムで働いていたり、学生だったりと※1「定型発達者」と同じように社会生活を営んでいる人が多い。もっとも、研究の舞台、事例の当事者たちはアメリカ人なのでアメリカの社会基盤、教育等によるところも大きいのかもしれない。

※1 本著では、いわゆる発達障害を抱える人を「非定型発達者」それ以外を「定型発達者」と区別して呼んでいる。

本の中に出てくる「セカンドライフ」のアバターを通して語られる自閉症の人の幼少期から青年期は、大なり小なり苦労が多い。いじめにあったり、親に理解されない孤独感があったり、それを表現するすべがなかったり。とくに、じっとしていられない、動かずにいられない子にとって、頭ごなしに叱られるときの気持ちは、なんとも悲しいものであったのだろうなと思う。

 

「非定型発達者」と便宜上名付けられた自閉症の人たちは、成長に伴い少しずつ「定型発達者」と呼ばれる人の基準に合わせて生活をおくるように自分をコントロールするようになる。

彼らがどんなふうに景色を見ているのか、どんな世界に身をおいているのかは本著に明らかだが、たとえばある文字は色で見えていたり、ほんのわずかな接触でも非常に苦痛や痛みを感じる過敏な状態だったり。

自閉症の赤ちゃんが「抱っこもさせてくれない」といった親の声を聞いたことがあるが、その背景には子どものこうした感覚過敏があることがわかる。

印象的な言葉

本の中で、とても印象深い節があった。

※2 NTの人たちからすると、自閉症の人はこれもできないあれもできないという見方になりがちだが、仮想空間で遭遇した自閉症の人々が語っている内面世界は、情報を過剰なままに取り込んでいる強烈な脳内景色、ハイパーワールドだった。つまり自閉症の人は過剰なまでに強烈に見、聞き、そして世界を感じているのかもしれない。どうしてそうなるのかその原因はまだ霧のなかだけれど、自閉症アバターの人々が、自分のハイパーな脳内世界を感じ取っていることは確かなようだ。

 

 「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち」P.259

※2 NTとは定型発達者のこと。
おそらく、忠実に誠実に自閉症の人たちが見ている世界を再解釈して言葉にしたら、こうなるのだと思う。本を読み進めててなんだか腹落ちした箇所でもある。

同じ世界に生きてても違う景色を見ること

私たち、少なくとも私は同じこの社会に生きている人がほぼみな同じような世界を見て、聞いて共有していると思っていた(結婚してみてそうではないことはわかったけれども。そのことはまた別談にて)。

自閉症の人が見ている世界がこんなにもリッチで彩り豊かで素晴らしいものだということは全く想像もしなかった。

一般社会の常識、共通認識からはずれたもの、欠けるものというアプローチで「発達障害」というレッテルを貼ってなんとか取り込もうとするけど、そもそも自閉症ってなんだっけ、どういうふうにこの世界を捉えているのだっけ、ということを知ろうともせずに「同じに」「普通に」なることを求める社会は息苦しい。

 

非定型発達者であっても、そうでなくても、そもそも私たちが捉える世界はそれぞれ少しずつ違う。何に反応し、何をポイントに置くかも人それぞれ。その差が大きかったり小さかったりという幅はあるだろうし、現状は定型発達者が中心に社会秩序を作っているから、非定型の人たちもそのフォーマットに従った生き方をしているけど、それが正しい/間違っているという二元でくくれない。

 

アメリカは「自由の国」と呼ばれるだけに、才能を伸ばせる場所がある(ようだ)。日本の教育現場では今のところは支援級と普通級と分けていて、非定型の人の世界観に触れる機会は少ないのかもしれないけど、私が小さい頃に想像をできなかったさまざまな特質を持った人の背景にあるもの、とらえているものを子どもには知ってほしいし出会ってほしいと思う。

ハイパーワールド:共感しあう自閉症アバターたち