【読書】「孤独」から考える秋葉原無差別事件

秋葉原無差別殺傷事件とは

 東京地裁の検察側の冒頭陳述より事件の概要を紹介したいと思う。

本件は2008年6月8日、秋葉原のメーンストリートで、歩行者天国が始まって間もない午後0時半ごろ、被告が2分間に合計18人に対して、殺害行為に及び、7人の命を奪い10人に重軽傷をおわせるなどした事案。

「孤独」から考える秋葉原無差別事件 資料より

 加藤智大という当時26歳の若者が白昼、都会のど真ん中で起こした事件としてセンセーショナルに報道され、いまだに記憶している人も多いだろう。無差別殺人でもあり、社会全体に怒りと悲しみが広がったこの事件、「極悪非道の若者の犯罪」で片付けることのできないたくさんの宿題を、課題を社会に残した。

本著は加藤被告が事件を起こすに至ったそのエッセンシャルの部分に踏み込んで対話形式で展開していく。

数多くの被害者や今もなお後遺症で苦しむ方々にとって「悪魔」でしかない被告であろうが、被告が「悪魔」に至るまでには26年という月日と彼の置かれた生育環境はとても深い根でつながっている。

 

事件を一言で表現した言葉

どこかで聞いたことがあったかもしれないが、本著を読んで改めて衝撃を受けたのは、この事件を誰よりも深く洞察し、捉えていたのは被告にほかならないという事実であった。

加藤被告は、

「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし、難しいね、誰でも良かった、なんかわかる気がする」

と事件前に携帯サイトに書き込んでいたという。

ちょっとこんな表現は思いつかない。私のような凡人にはおそらくこんなスパッと言い当てるような言葉は到底出てこない。

本著の著者、芹沢俊介氏もこの言葉に非常なショックを受けたと述べている。

 

この言葉は親と加藤被告の距離を言い当てているのではないかという仮説で芹沢氏と高岡健氏が考察を重ねている。

 

加藤被告の生育の手がかり:行動化

加藤被告は就学前から「虐待」を受けて育ったという。トイレに閉じ込められる、上階から落とされる、小学校に上がると、鉛筆の削り方が悪いと芯を折られて削り直し、九九を間違えると湯船に顔を押し付けられる、トイレの水を飲まされる、食事が遅いとチラシに料理をぶちまけられ、食べるよう強要される...虐待の実態は枚挙に暇がない。

 

母からの虐待は形を変えて続く。進学する大学のレベル、資格などなど親からの要求が続いていく。自殺企図もあり、一度は「家族」の再構築を試みるが、両親の離婚により本当に深く加藤被告は傷ついていく。

こうした母のあり方は「行動化」というらしい。

たとえば、「鉛筆の削り方が悪い」と思ったら、おそらく、一緒に削ってあげて言葉で説明して...を繰り返して、本人ができるようになるのを見守ると思うが、だめ=芯を折るというのは非常に暴力的でダメなことに対して懲罰的に行動に出てしまう、躾の仕方だったらしい。

躾とはいえず、虐待と言えると思うものだが...。

 

いずれにしても行動化してしまうことで子どもの心身に深い傷を残すし、その傷がまだ新しいうちに次の傷がついて、手当もされないまま放置されてしまうと子どもの心は静かに死んでいく。

親殺しの前に子殺し

この事件とは少し違うが、青少年の親殺しの事件というのが時々ある。芹沢氏は「親殺しの前に親による子殺しがある」と分析するが、その通りなのではないかと思う。加藤被告の場合もまた、親によって精神的、心理的には殺されていたといえるだろう。

加藤被告は両親について「両親とは精神的つながりのない家庭で、ほぼ他人だが、他人ではない」と複雑な思いを込めて語っている。

この親にとって子どもはどのような存在だったのだろうか。

どんな親でも子どもにとって親は親。だけど、どんな子どもでも親にとって子どもは子ども。大事な存在だと思えているのだろうか。

もしも思えていたとしても、人は虐待をしたり自分の理想を押し付けたり、価値にはめ込もうとする。

それってすごく悲しいこと。

そして、子どもを殺しかねない。精神的にも、時には肉体的にも。

そうならないためにもこの本から親子関係というものを、人というものを深く見つめることが重要なのではないか、と思う。

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「孤独」とは何か

本著を読んで気付かされたことだが、本当の孤独は「拠り所」のないことである。

たとえば、わかり易い例として家族がいて、その一歩外に会社の同僚とか友人とか、親しい日々の付き合いをする人がいる。

もしもその一歩外の世界にそうした存在がいなくても「ここに家族がいる」「これが私の家庭」という存在があり、そこがやすらぎならば、「ひとり」という空間や時間があっても真の孤独ではない。

でも、もしもその真、核となる拠り所がないと人は孤独を感じる。それは、一歩外の世界に友達がいても、仲間がいても。

 

宗教はその「核」を埋めてくれるもの。

私はずっとそう思っていた。

ちょっと余談になるが、私自身はキリスト教徒だが、聖書の神様がその「核」を埋める存在であるというのは否定しないが、それは一部であって全部ではない。残念ながら。

よく言われることだが十字架の縦は神様との関係、横は人との関係である。

神様は、神様と私、という関係を大切にしてほしいと願っているが同時に私とあなたという横の関係も大事にしてほしいと願われる方である。

 

横の関係の中で埋められない思いを縦の関係で満たすのではなく、横の関係を築くことを望んでおられるのが神様なのだと思う。

残酷といえば残酷。でも、それは神様の誠実さでもあると思う。

私たちはあるべきところにあるべきものを置かなければならない。ほかのもので穴埋めしたり、その場しのぎで置くことは、長い目で見たら良いことではない。

 

話を戻すと、加藤被告が親との関係の中で埋めることのできなかったもの、親との関係の中でずたずたに壊されたもの、壊れたもの...事件はその最後に必然的に出てきた彼なりの、親から学んだ「行動化」にすぎない。

「孤独」から考える秋葉原無差別殺傷事件 (Psycho Critique)