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【雑記】尊厳死、安楽死、さまざまな死についての選択

一番最初に尊厳死安楽死を知ったのは高校の授業だった。キリスト教主義の学校だったので、死に至る人の心理のステップ(拒絶から需要に至るまでの葛藤など)やこうした死における人の尊厳ということについて特に欧米で、宗教的文脈を含めて議論されたり制度が施行されていて、とても興味深いと思った。

それから20年以上がたち、最近もTwitterやテレビなどで時々尊厳死についての話題を見ることがある。

ソーシャルワーカーとしてこの問題にまだきちんと向き合えきれていないので雑記としたいが、医療倫理の文脈やDNARとDNRの違いなどにおいても死をどう捉えるか、「誰が・いつ・何を・どのように」決めるかということを度々考えさせられている。

 

bunshun.jpこの記事で古市氏が語ることが普遍的なことなのか、私には判別しがたいが、これまでたくさんの患者さんとそのご家族と会って、話し合いを重ねていて、「延命治療セッ巨曲的にしてください」という方には出会ったことがない。出会ってないのも極端な気がするのだけど、毎日何万円ものベッド代を払う方から生活保護の受給者までおしなべて「延命治療は望まないし、心肺蘇生もして欲しくない」とおっしゃることに驚いた。

 

少なくとも、ここで古市氏が言ってるような現状をひしひしとは感じないのはまだ私の経験が足りないからなのだろうけど、高齢者が皆、延命を望んでそのせいで医療費がかさみまくっているというのも本当かな???と思ってしまう。

むしろ、他の方もどこかで指摘していたけれど、どこが「最期の1ヶ月か」がわからず、目の前の人の救命のために様々な治療を施し、だけども助けられずに亡くなってしまったケースも多いはず。

 

ちょっと話が遠くなってしまったが、尊厳死についてすごく難しいと思うのは、「もうすぐ死ぬ」という予測ができる疾患もあるかもしれないけれど、それが難しいケースもあると思ってしまうから。

時々、がん患者さんでステージ4「余命3ヶ月です」と言われながら回復期リハに転院してくる方がいて、がん治療すればもう少し長生きできるかもと言われているけど、そこも拒否して回復期という選択をして、結局、意識混濁でリハもできずに亡くなる方がいる。

これも尊厳死に含まれるのか、どうなのだろうかと考えさせられる。

 

胃ろうについても同様で、「胃ろうは絶対に嫌だ」という人は多くて、私の両親もご他聞にもれず、だけども胃ろう=悪いもの、延命処置と思っている節があるようで、それもどうなのかなぁと思ってしまう。

例えば脳血管疾患で嚥下障害が起きて、他はすごく元気なのに食事はとれないとか、食道がんで口から食べられないから胃ろうで、という人がいる。こうした場合、胃ろうを作らなければ点滴ないし経鼻経管などで対応するしかないけれども、QOLを考えた時に、胃ろうの方が良いかもねと思われることがよくある。

確かに、いつかは命が終わるから胃ろうの「やめ時」ということも考えなくてはならないけども。

ある患者さんが経鼻経管栄養で回復期リハビリ病棟に来て、車椅子の乗車も1時間程度だったのに、胃ろうにしてから歩行は進むし意識ははっきりしてMMSEが10点台から26点になって支えがあれば数段の階段も登れるようになって。食事も1日の半分は口から食べられるようになって…。

 

こういう方を見ていると、胃ろう=延命、悪、といった考えが極端に思える。

 

ある人にとっては延命になる治療・医療行為が、ある人にとっては救命になる。

だから、尊厳死安楽死など自分の死について考え、選択できること、することはすごく大事だと思うけど、自分にとって今それが何に当たるか、きちんとインフォームドコンセントを受けておく必要がある。

一般論だけ見て「胃ろうはいい」「胃ろうはやだ」と考えると、いろんなケースに対応できないと思う。

その意味でも、医師のICを受けることをいつも患者さんやご家族には強く勧めている。

より正しい判断、自分の気持ちや価値観に沿った選択をするためにも、医学的知識や治療内容、計画を知っておくことが欠かせない。

 

そ子を抜きにして「やだ」「良い」だとすごく心配になってしまう。しかも、その選択を家族がしていることが多くて。本人の意思を尊厳するためにも「本人はどう考えるか」を一番大切に考えないといけないなと思う。こと、生死に関しては慎重にそう思う。