MSWのこぼれ話

不定期に更新します

【自主学習】「女性・子どもと暴力」の講演を聴く。

港区男女平等参画センターが主催するフェスタに森田ゆりさんの講演があり、聞きに行った。

森田ゆりさんといえば、日本にCAP(Child Assault Prevention)を紹介したことでも有名で、CAPのワークショップや研修は、ソーシャルワーカーでも受けて当たり前、くらい普及しているもの。

森田さんは今、エンパワメント・センター主宰として虐待だけでなく、広く人権についても活動をしている。

 

人権とは何か

森田さんは、人権とは「生きる力」であり「まるい力」だという。

生きる力とは、「自分をたいせつな人と思えること」。この生きる力=人権であり、明治時代に福澤諭吉が翻訳した「天賦人権」とはまさにここでいう人権と重なる。

 

森田さんが20年ほど前から取り組んでいるものの1つにMY TREE ペアレンツプログラムというのがある。

MY TREE ペアレンツプログラム | 森田ゆり主宰 エンパワメント・センター

虐待をしてしまった親や被虐待児へのプログラムも展開されている。こうしたプログラムを通して親も子どもも「生きる力を取り戻」していくのだという。

日本の法律では

日本の法律では、1947年から児童福祉法というのがあるが、子どもの権利条約が批准された94年以降もずっとずっと「国民は」という主語を使って法律の文言が展開されており、2016年にようやく「児童は」と子どもに主体性を持たせた文言に書き換えられた。

どうしてこんなにも時間がかかっているのか、不思議で仕方がないが、法律においてもその重すぎる腰は、子どもの権利を正しく捉えていないということの証左なのだろう。

身体的虐待の発生と予防策

身体的虐待とはズバリ

体罰 + いくつものストレス + 孤立 

の中で起きるという。

半年ほど前、友だちのお子さんが児童相談所に一時保護された話を思い出した。彼女は、長くワンオペをしてきて、最近ではご両親とほぼ同居で、下は5歳から上は12歳までの子育てをしている。

やや、発達障害があると指摘を受けている一番上のお子さんがどうしてもいうことを聞かずに、殴る蹴るをして、体も顔もあざだらけ。それで、学校から通報があり保護されたとのこと。

その彼女が「次は見えないところをやるまで」「悪いと思っていない」といったのには本当にかける言葉もなくてどう反応したら良いかもわからず、「でもやっぱり体に受けた傷以上に心の傷はわからないから」というようなことを話した気がする。

 

きっと、殴った彼女にも傷があると思いながら…。

 

体罰をしてしまう環境的要因(ストレスとなりうるもの)は、親自身が持つ価値観・指向性や生育環境よりもじつはとても大きくて深刻なのではないかと思った。

DVを受けている、夫と不仲、子どもの発達特性、経済的問題、家族関係etc.がある。

そして、体罰には大きく分けて6つの課題があるという。

  1. 感情のはけ口になっている
  2. 恐怖(痛み)を与える
  3. 即効性があり、他の方法がわからない、待てなくなる
  4. エスカレートする
  5. それを見ている他の子へのダメージも大きい
  6. 取り返しのつかない事故になる

深く納得してしまった。手が出るとき、出そうになるときは大抵親側のキャパが超えている。子どもを全然受け入れられなくなっている。同じことが仮に赤の他人であったり、対大人だったらしないだろうと思う。その理由は、「責任が自分の子にはあるから」というよりは、赤の他人の子どもの親の存在や、対大人なら相手との力関係、周囲からの評価の前に理性が入り込むからだろう。

親が自分の子どもを「所有」している限りは体罰によって落とし所(自分の気持ちの収めどころ)を持つ人が後を絶たないのではないかと思う。

 

だからこそ、体罰に代わるしつけの方法が必要。

閑話休題

講演の中では詳しくは触れられていなかったが、私なりに、私が子育てですごく最近見つけたものは、「子どもを抱きしめる」「抱っこする」というもの。

怒りたい、叩いてしまいたいと思うほどイライラがピークになったときにこそ、抱っこ。

そうすると、子どもの感情が落ち着く。子どもの感情が落ち着くと同時に自分の気持ちも落ち着くから。

毎回、できることでもなく、うまくいかずに怒ることもあるけど、手は出さないで済んでいる。

先日、仕事がらみで小さい2歳くらいの子どもたちと遊んだり触れ合う機会があった。

その子どもの1人がおもちゃを投げて友達に危ない思いをさせていた。何度もするから怒りたくなる大人もいたかもしれないけど、たまたま危ない思いをした子どものケアを他のスタッフがしたため、すかさずおもちゃを投げた子を抱き上げたら、素直に抱かれるがまま。

温かいし、こりゃ眠いわ、と思って、「眠かったんだね。ねんねしようね。でもお友達痛かったから投げるのはやめようね」と言ったら自分からゴザの上に寝転がっていた。

 

その子なりに荒れる理由がある。

その理由は言葉にはできなくて、行動になって現れるけど、大人の側がこうかな・ああかなと声をかけて関わることを繰り返していくと、きっといつの日か子どもは自分の気持ちを話せるようになるのではないか、と思う。

5歳の娘はまだ全然ダメで、こちらも本当に「もっと頭で考えなさい」とか「はっきり言いなさい」とか言ってしまうけど。

 

DVと虐待事件

虐待事件の中には、DVが背後にあるケースがあるという。

例えば、日本を震撼させた「目黒虐待死事件」もそうだし、「野田虐待死事件」もそう。

これらに共通しているのは児童相談所が一度は介入し、一時保護をしていながら、きちんと連携が取られずに再虐待のすえに子どもが虐殺されてしまっている。

森田さんの言葉ではないけど、子どもへの虐殺だろうと個人的には思う。

そしてもう1つ、この2つの事件では夫が妻にDVをしていた。妻もまたDV被害者であったという点だ。

 

DVを受けると多かれ少なかれマインドコントロールされていく。「自分も悪かったのではないか」から始まり、「こんなにちゃんと頑張ってるのに子どもが泣くから、いい子にしてないから、私が(夫に)怒られる」となり、ついには夫と共犯関係になることで自分を守ろうとする。

 

この共犯関係は母子間でもあるし、片方の兄弟と両親が結託してもう1人の兄弟をいじめるという図もあり得る。

家族は病理が潜みやすい。

少なくとも、父親たる夫から母親へのDVがもっと敏感にキャッチされて問題視されていれば、外部の関わり方で救えたのではないかというのがこの事件に共通している。

 

そして最後のポイントは、どちらの父親とも「サイコパス」だという。人と共感するとか情緒的な関係を築くことができない人たち。

未だ、彼らは自分が悪いとは思っていないし死んだ方が悪い、子どものせいで自分は捕まってる、くらいの認識なのだろう。

通り一遍の反省は示すかもしれないけど、どこまでいっても自己愛性が強いらしい。

つける薬もない。

怒りの仮面とは

 怒りには「健康な怒り」と「不健康な怒り」があるという。

健康な怒りとは、不正に対する怒り、正義が実行されていないこと、公平性に欠くことなどへの怒り。

不健康な怒りとは、悲しみや痛み・不安を覆い隠した怒り。

なぜ、覆い隠して怒るのかというと、傷つき体験の感情が突かれるから。刺激されるから。

 

講演の最後は駆け足だったが、この怒りの話は非常に心に止まった。

 

ちょっと個人的な話になるが、思い出したことがあった。

「怒りとは悲しみや不安、寂しさの裏返し。僕を怒らせるのはあなたが悪い」。

何遍となく、私が結婚して以来、元夫に聞かされ続けた言葉。

あなたが怒るのは、私のせい??

私が悪いから、あなたを怒らせるの??

 

言われるたびに考えさせられて、その意味がわからなくてまた怒らせるということを繰り返していた。

この講演を通して語られたことは、私の混乱を整理し鎮める時間でもあった。

妻という立場で元夫に何かをアプローチすることは難しかった。彼がカウンセリングや癒されていない親との葛藤を超えていくということへの関心はなかったし、同じ境遇の兄弟たちと始終傷を舐め合い、共感し合い、私を批判して笑っていた。

それでしか彼自身が解放できなかったのだろうと思う。

だから私は離れることにしたのだけど、この講演を聞いて自分の中に少なからず、結婚当時えぐられたものがあったんだなと思った。自分の心に触れられたことはとても良かった。

 

たかだか4-5年ほどの結婚でこの有様。

10年、15年と結婚していればどんなに頭で分かっていても共依存的になる部分はあるだろうし、それがないと自分を保っていけない。

モラハラやDVをするやつは、根こそぎ人の人生を、心を抉り取っていくから。

#2f4f4f

 

最後に

ある日、ツイッターを見ていて気になったことがあった。

野田の事件で母親が実刑判決が出たことに「当然」という意見。そして、三つ子の母親がお子さんをあやめてしまった事件についても「実刑判決を受けて当然」という意見。そして弁護側の意見を述べた多胎児の親に対する誹謗中傷も散見された。

 

これは一体、なんだろうと心底訝しく思った。

何も、虐待する親が「明日の私の姿」だからではない。

あの事件が起きたのは社会の仕組みが不完全だからだとなぜ思わないのだろうか?ということ。

そしてその不完全な社会の仕組みに甘んじていたのは虐待してしまった親だけじゃなくて私も責任があるのではないのか?と。

私自身は政策立案を生業とはしてないし、行政で働く身でもないけど、「子どもの命を守るのは大人の役割」とシンプルに考えている。

別にその時にいう子どもって自分の子どもに限らないし、大人は親じゃなくて成人した全ての人を指す意味で使ってる。

 

親が子どもの命を守るのは当然と言えば当然かもしれないけど、家族の中というのはとかく病理が蔓延しやすい。しかもその病理は案外、外からは見えなくて当事者の味わう違和感で客観視されていくけどそのプロセスに付き合ってくれる人はまずいないから、セルフケアしていかなければならない。

セルフケアも何も、「自分が悪い」「自分が変わればいい」としてしまう人の方が多いと思う。圧倒的に楽だから。

だから、昔とは違う価値観で生きていくし、それが必ずしも悪いとは思わないけど、いき過ぎれば良くない結果をもたらすこともあるだろう。

 

だから家族の力とかそういう言葉が嫌い。そういうことを言う人はちょっと警戒してしまう。

家庭内で愛されて子どもが育つことはとても大事。それはすごくわかる。けれど、同じように社会の中でも愛されて育てていくべきだと思う。

虐待とかDVとか防ぐ仕組みにもっと制度も人的教育(ワーカーの育成や研修など)も予算をつぎ込むべきだと思う。

少子高齢化とか言いながら、今生きてる子どもたちがこんなにあっけなく親や学校の先生、同級生に殺されていたり、心を殺されている日常なんて異常事態だから。

 

高みの見物みたいに「実刑判決当然」と言えてしまう大人に不快感を覚えている。