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【読書】「家族という絆が絶たれるとき」

家族という巨大ないきもの

家族というものを語ったり分析した本は世の中に数多ある。本著では、家族を家族と子ども、家族のこころ、家族のからだという捉え方でまとめたものである。おもには、いじめをふくむ少年犯罪を軸に展開している。

 

家族と子どもより

家族と子どもの章の中に興味深い分析があった。ここでは親殺し(未遂も含め)、少年少女が「性」という視点から捉えている。筆者は章の冒頭で

ことによるといま、男の子も女の子も、それぞれの相補的存在でみなされることを、さらには対的存在の前段階に位置づけられることをも、厭いはじめているのではないだろうか。

と指摘する。この背景には女性の社会進出だとか一億総活躍だとかといった政策や社会の風潮も関係している気がするが、それだけではないようにも思う。

最近の傾向(かどうかはわからないが)ことさらに「男性である自分」「女性である自分」というのをアピールする若い人たちに出会うことがある。

私は普段、そうしたことを深く意識しないせいか、閉口してしまうが、「かわいい」

「きれい」といった通り一遍の褒め言葉を多用して「今日も『女性として』うつくしい」というジャッジが学校で、職場で同性の同僚、クラスメートの間で交わされる。こうしたことに対する拒絶反応をもつ人に対して「そういう人もいるよね」という余地を狭い社会は残してくれない。彼ら・彼女らの居場所はないように思えてしまうのではないだろうか。

母親に自分の存在がまるごと受け止められたという「受け止められ体験」が希薄であるとき、子どもは次の段階へ進めない。受け止め手としての母親に出あえない子どもは、男の子であれば、父親と出あうことができない。父親に出あえないということは、社会性としての自分を父親との葛藤をとおして手に入れていく、その機会を得られない......中略......

女の子は、おそらく同性への同一性の感覚を肯定的に獲得できないのではないか。

 

こうした分析も議論の余地はあるだろうが、傾向としては否めないような気がする。先日、保育園に通う3歳の娘のお迎えに行くと、私の顔を見た途端に泣き出した。どうやら、遊びの中に入りたくて、すっと娘が輪に入ろうとしたところ、遊んでいた子どもに「『一緒に遊ぼう』って言わないのに勝手に入ってこないで。」と言われてしまったらしい。

 

娘にとってはショックな出来事。おもちゃを勝手に取ったわけでなし、同じ保育園の中でどんなふうに遊びに加わっても良いような気がする。

帰り道、泣きべそをかく娘を抱っこしながら「そういうふうに言われてすごく悲しくなったんだね。ママはね、嫌な思いをしてまでその中で遊ばなくてもいいと思うし、その子に謝るとかまた仲良くねっていうのも違うと思ってる。

また遊びたくなったら『一緒に遊んで』って言えばいいよ。でも、悲しくなって嫌になって、無理やり遊ぶことはないんだよ」と伝えた。

正しいかどうかはわからないが、大事なことは娘が傷ついた自分の心を自分で受け止めて自分なりに人との距離をもてるようになることであり、私自身は娘がたくさんの人と仲良くなることよりも、人との関わりの中から多くを学べる子になってほしいと思う。

受け止め手として、未熟であり不完全だけど、親としてはまるごと以外に子どもを受け止めようがない、のも実際のところである。

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家族のこころより

さまざまなテーマが入っているこの章。この中で子どもの問題行動について

「治療」と「指導」でせめたてられる子どもたちの様子が浮き彫りになっている。「言うことを聞かない子ども」に対してたたいてしつけをする親たちの4割近くが「叩いてよかった」とアンケートに答えているという。これは結構驚く結果だった。

そうか。こんなに肯定的に叩いて教育する考えがあるのか。暴力を肯定してしまうのか。と。

 

また、子どもの「問題行動」を親も受け止めきれず、「素直な子どもになるように」と精神科に連れて行くケースもあるという。

当事者でないとなかなか理解できないかもしれないが、叩くことも子どもを理解できないことも親にとっては「それ以外に何も選択肢がない」という思いの結果だと思う。精神科に行くとか、相談するという知恵があるぶん、マシな気もする。

かくいう私はどんな些細な場合でも叩くのはよくないと思っている。だけども、自分の気持ちに鬼のように(文字通り)怒りが募って手が出てしまうことがある。力ずくで座らせたり立たせたりという感じで叩く、というのとは違うものの、娘に恐怖心を与えている時点で「最悪だな」と自分に思うし、娘に謝るけども、子どもの心を壊してしまっていることは変わりない。

 

「問題行動」が果たしてどういう種類のものなのか、どう家族は対応できるのか、この本には家族の側への何らかの救済案はなかったが、行動を起こす子どももまた、言葉にならない思いを抱えていると思う。

アドボカシーという考えがあるが、ソーシャルワーカーとして正しくadovocateしていくことが求められるだろう。

 

家族のからだより

親はほとんど条件つきでなくては、子どもを可愛がることができない。逆に子どもはどんな親であっても自分の親だからということで心のどこかで好きなのである。

ほとんど無意識にそれこそ選択肢などなく、子どもは親を喜ばせたいと思っていて健気なまでにがんばる。「良いんだよ。大丈夫よ。何があってもあなたは大事な子どもだよ」とくりかえし、くりかえし伝えて何度でも港になって、子どもが帰ってこられる場所になることが大事だと思う。

元夫の両親はそうしたことがどうしてもできず、今もできないがゆえに元夫にとってそうした港をもたないまま、今も帰る心の場所がない。

子どもにとって親はいつでも戻れる「場」でありたいと思う。

家族という絆が断たれるとき (サイコ・クリティーク)

 

 

【読書】「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち」

 

本題に入る前に

発達障害に関する本というと、学者が論じているもの、福祉職従事者の現場の声、家族が語っているもの、わずかに当事者が語っているものがある程度で全く関わりのない人が語ることは少ないのではないだろうか。

 

自閉症そのものは何十年も前から学校や病院などでは認識のあったものだと思うが、「スペクトラム」というある程度の範囲、幅をもたせた呼び方というのはそれほど古いものではない。

事実、1990年代になって「自閉症スペクトラム」や「アスペルガー症候群」といったことの研究が進んできた。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy1926/75/1/75_1_78/_pdf

自閉症スペクトラム指数日本語版の標準化)

 

自閉症状を持つ人との数少ない出会い

多くの人は自閉症という言葉を聞いて、どんな人のどんな症状を思い浮かべるだろうか。私が初めて出会ったのは小学1年のときのこと。同じクラスのMちゃんとその双子のきょうだいのYちゃんがいて、Yちゃんは制服を着てバスに乗って学校に通っていた。当時はYちゃんがすごく大人でお嬢様にみえていた。後から知ったことだが、Yちゃんは養護学校に通っていたらしい。

Mちゃんは同じクラスだったけど、私はMちゃんの声を聞いたことがない。

1つだけ覚えているのは、ひらがなの練習で「あ」が鏡文字になってしまったときに泣いていたこと。恥ずかしい気持ち、悔しい気持ち、私にもあるからすごくよくわかる!と心のなかで語りかけたこと。

もう1人は5歳ほど年下の男の子。校内の養護学級にいて、一言もことばを発しなかったけどすごくかわいくて、全校遠足のときにその子と手を繋ぐことが決まったときは、一日限りの弟ができたようでうれしかったことを覚えている。

 あとは、自閉症とは違うが、小学生の時に参加していた夏のキャンプに知的障害児が参加していた。リーダーのフォローを受けつつ過ごしていたが、あの頃の私に彼らがどんなふうに世界を把握し、何を考えたり感じているのか想像もしなかった。自分の感覚とほかの人の感覚が違うかもしれない、ということすら思いもしなかった。恥ずかしながら。

ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち

 さて、今回紹介する「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち」は、おもに大人の自閉症の人々をテーマにしている。著者は社会学者だが、ただ社会学の研究対象として自閉症を見ているのではなく、著者がごく個人的な出会いによって大人の自閉症スペクトラムの人とつながり、徐々に彼らのもつ世界を見て感じ取ったもの、考えたこと、調べたことなどを言葉にまとめたもの、という方がふさわしいような内容である。

この本のタイトルが「自閉症アバターたち」となっているのは、本に出てくる人物(自閉症の人)たちが「セカンドライフ」というVRを体験できるPCゲーム(SNS)でつながり、社会を築き、会話をたのしんでいるからだ。

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意外と知らない大人の自閉症

私達が自閉症と聴くと思い浮かべるのは大人よりも子どものことのほうが多いのではないだろうか。私自身の思い出に引っ張られているのかもしれないが、著者の池上氏も大人の自閉症研究が少ないことを著書の中で指摘しているから、あながち間違いでもない気がする。冒頭に述べたように、自閉症スペクトラムという言葉自体もここ20年ほどで言われるようになったものである。

自閉症の子どもたちも大人になる。主婦であったり、パートタイムで働いていたり、学生だったりと※1「定型発達者」と同じように社会生活を営んでいる人が多い。もっとも、研究の舞台、事例の当事者たちはアメリカ人なのでアメリカの社会基盤、教育等によるところも大きいのかもしれない。

※1 本著では、いわゆる発達障害を抱える人を「非定型発達者」それ以外を「定型発達者」と区別して呼んでいる。

本の中に出てくる「セカンドライフ」のアバターを通して語られる自閉症の人の幼少期から青年期は、大なり小なり苦労が多い。いじめにあったり、親に理解されない孤独感があったり、それを表現するすべがなかったり。とくに、じっとしていられない、動かずにいられない子にとって、頭ごなしに叱られるときの気持ちは、なんとも悲しいものであったのだろうなと思う。

 

「非定型発達者」と便宜上名付けられた自閉症の人たちは、成長に伴い少しずつ「定型発達者」と呼ばれる人の基準に合わせて生活をおくるように自分をコントロールするようになる。

彼らがどんなふうに景色を見ているのか、どんな世界に身をおいているのかは本著に明らかだが、たとえばある文字は色で見えていたり、ほんのわずかな接触でも非常に苦痛や痛みを感じる過敏な状態だったり。

自閉症の赤ちゃんが「抱っこもさせてくれない」といった親の声を聞いたことがあるが、その背景には子どものこうした感覚過敏があることがわかる。

印象的な言葉

本の中で、とても印象深い節があった。

※2 NTの人たちからすると、自閉症の人はこれもできないあれもできないという見方になりがちだが、仮想空間で遭遇した自閉症の人々が語っている内面世界は、情報を過剰なままに取り込んでいる強烈な脳内景色、ハイパーワールドだった。つまり自閉症の人は過剰なまでに強烈に見、聞き、そして世界を感じているのかもしれない。どうしてそうなるのかその原因はまだ霧のなかだけれど、自閉症アバターの人々が、自分のハイパーな脳内世界を感じ取っていることは確かなようだ。

 

 「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち」P.259

※2 NTとは定型発達者のこと。
おそらく、忠実に誠実に自閉症の人たちが見ている世界を再解釈して言葉にしたら、こうなるのだと思う。本を読み進めててなんだか腹落ちした箇所でもある。

同じ世界に生きてても違う景色を見ること

私たち、少なくとも私は同じこの社会に生きている人がほぼみな同じような世界を見て、聞いて共有していると思っていた(結婚してみてそうではないことはわかったけれども。そのことはまた別談にて)。

自閉症の人が見ている世界がこんなにもリッチで彩り豊かで素晴らしいものだということは全く想像もしなかった。

一般社会の常識、共通認識からはずれたもの、欠けるものというアプローチで「発達障害」というレッテルを貼ってなんとか取り込もうとするけど、そもそも自閉症ってなんだっけ、どういうふうにこの世界を捉えているのだっけ、ということを知ろうともせずに「同じに」「普通に」なることを求める社会は息苦しい。

 

非定型発達者であっても、そうでなくても、そもそも私たちが捉える世界はそれぞれ少しずつ違う。何に反応し、何をポイントに置くかも人それぞれ。その差が大きかったり小さかったりという幅はあるだろうし、現状は定型発達者が中心に社会秩序を作っているから、非定型の人たちもそのフォーマットに従った生き方をしているけど、それが正しい/間違っているという二元でくくれない。

 

アメリカは「自由の国」と呼ばれるだけに、才能を伸ばせる場所がある(ようだ)。日本の教育現場では今のところは支援級と普通級と分けていて、非定型の人の世界観に触れる機会は少ないのかもしれないけど、私が小さい頃に想像をできなかったさまざまな特質を持った人の背景にあるもの、とらえているものを子どもには知ってほしいし出会ってほしいと思う。

ハイパーワールド:共感しあう自閉症アバターたち

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このブログについて

社会福祉と無縁の世界で生きてきた社会福祉士のひよこが関連する本やニュースから考えたこと、仕事で得た知識などを書いていきます。

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プロフィール

大学を卒業後、出版社に勤務。編集、記者を経てWebメディアの世界へ。刺激的で変化に富み、苦手な数字と格闘するデジタルの世界で仕事に邁進するも、日々虐待で心も体も精神も傷つけられている子どものニュースを見るたびに胸が痛く、社会福祉の勉強を2015年にスタート。

2017年に社会福祉士の試験を受けて合格し、社会福祉士にキャリアチェンジ。