鈍感と敏感の混在
先日、先輩と患者分担について話していた。
今の担当患者を見ていると
- 帰りそうな人、帰る予定のある人 3割
- もう少し時間がかかるけど方向の決まってる人 6割
- まだどうなるかわからない人 1割
という割合(すごくアバウト)で困難だったりやりにくいと感じる人はいなくて、過去を振り返っても、今の病院に勤務してからあんまり仕事が大変!!!!と感じることもない。
「ずっと、やりやすい人ばかり担当してきたからちょっと神経質な人でも担当しますよ!」と何気なく、本当に何の気なしに言って、ちょっと大変そうな人を担当しようかなと腹づもりをしていたところ、先輩曰く「そんなことはないでしょ!」と。
そうだったかな〜。
自覚症状はない。
ないけど、指摘されればちょっと大変な人もいたかもしれない...。
だけど、直接私が対応できる範疇を超えてる話(例えば医師の対応や看護師のインシデント、アクシデントなど)だったり、最終的に対応策を覚えて患者さんに不利益のないように、気持ちを損ねないようになんとかなってきたような(つもり)こともあった。
だけども、都合が悪いというか、大変だな〜と思ったことはあっという間に忘れてしまう。
制度や法律は眼前にあっても、その人に必要なもの、その人が必要と思うものはその都度違う。
例えば介護保険。
ある人は「私には介護なんていらないわよ」と拒絶する人もいる。
「すぐ申請したい!」という人もいる。
どっちの人にも必要でも、その人が「必要」と思って初めて手続きなど現実的な動きにつながっていく。
その動きをするために必要性を話すとか、情報提供はするけど、「ない場合ならこういうことも考えられる」ということの良い側面もあれば伝える。介護保険でヘルパーをお願いすれば時間も内容もある程度決まってるけど、安い。
自費なら自分で好きなタイミングを設定できるし頼める範囲も広いけど、高い。
とか。
その人がいるいらないの判断をしている根拠がどこにあるか?で必要な働きかけは変わるし、相手のことを知らないとすごく行き違うことを感じる。
だからというわけではないけど、あんまり大変に思わずにいるのかもしれない。
「うまくやってるよね」と先輩に言われたけど、うまくやってるという感覚も残念ながら持っていない。
けど、すごく悩み込むこともなく総じてうまくやってると言えるのかもしれない。
嫌なことのスイッチオフの速さとか忘れっぽさには自信があるけど、本当に些細な一言が気になって寝覚めが悪いとか一日遅れで「あの時のあれはこういうことだったの!」と謝ったりすることもしょっちゅう。
こういうバランスは難しいけど、別にソーシャルワーカーに限らず、人が生きてる以上は人の中に存在する鈍感なところと敏感なところなんだろうと思う。
くれぐれも、必要な時にそれぞれの感性が発揮されるよう、祈るばかり。
そうでないと聴くべき声を聞き分けられない。